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更新日:2014.1.16

主宰 下館和巳

 

 母が死ぬ、ということはありえないことだった。

 確か小学5年の頃だったか、母が死んでしまったらどうしよう、と考えると表現できない恐怖に襲われて眠れなくなった。そして、妙なことをするようになった。なにをしたかといえば、眠る前に頭の中で、塩釜神社の朱色の鳥居をできるだけ正確に思い描いた。それを終えると母は死なないような気がしてぐっすり眠れた。

 母は、死ぬ七ヶ月前まで病気という病気はしたことがなかった。83年間元気そのものだったから、なぜあの頃そんな不安をいだいたのかわからない。でも、あの頃は母が死んでしまったら、自分は壊れてしまうと思っていたにちがいないと思うし、そうなればきっと壊れたのだろう。だから母はその時死ななかった。

 母は、あれからずっとずっと生きて、私も兄も妹もたくさんの孫たちも見守ってきたのだ。もう大丈夫だ、と思った時に母はいよいよ待ちきれずに父のもとに逝った。待ちきれずにというのは、かつて父の葬儀の折、母は父の柩に「10年後に参ります」と書いた手紙を入れたからだ。「いずれ参ります」ではないことが私たちの間の疑問だった。なぜ10年なんだろう?と。平知盛の如く「みるべきほどのものはみつ」という心境だったのかもしれないが、果たして一年遅れの11年後、母は自分の責任をすべて果たし尽くして逝った。

 短歌を愛し、三十一文字の世界で、母の言葉を借りれば実人生ではきれない「タンカをきって」「割り切れない思いを」割りきっていた。ちっちゃくておおきい、閻魔大王みたいな弥勒菩薩、少女のような大人、ロマンチシストで現実主義、涙もろくて大胆、料理の腕はトリプルA、地震と飛行機が大嫌いで、漬物が大好物で、夫につくし、子育てに命を削り孫たちを愛し、嘘が嫌いな愚直なほど真っ直ぐな母であった。もっともっと長生きして欲しかったとは思うけれども、あんな真っ直ぐで、よくぞ80過ぎまで元気で生きてこれたと逆に思う。

 それにしても、母のような生真面目な人から、よく私のような人間が生まれてきたものだ。人生は不可解である。