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イギリス日記#26~32 (2014.8.16~8.22) 

 

 

イギリス日記#26

朝一番でグローブ座へ。地下鉄ディストリクトラインでキャノンストリートまで行ってミレニアムブリッジを渡る。人が少なくて空気が澄んでいる。昼には川岸が広いのだが今は満潮。モダンテイトの隣にあってグローブ座がとても小さく見える。かわいいね。三本のプラタナスの木が並んでいる。真ん中が父の木。今日はワークショップ。テーマは声と台詞。グローブ座シェイクスピアのエッセンスだ。場所はサム・ワナメーカー劇場。キャンドルライトプレイで評判の空間。参加者12名男5女7イギリス人10人オーストラリア人1人日本人1人。みんな裸足でステージに立つ。全体の大きさはグローブ座の五分の一。ちっちゃくていいなぁ。収容人数は200人。ちなみにグローブ座は1700人。コーチは若い。そばに記録係の女性がいる。対象は素人のはずだが実際は全員がプロの役者か役者志願。役者じゃないのは私だけ。ジャティンダに会ったばかりの頃にこういう質問をしたっけ。どうやったら演出家になれるの?余りに素朴な質問(笑)にジャティンダ実は嬉しかったらしいが、セルフメイドだよカズミと。演出家はほとんどがそう。自分で道を開くのさ、それしかない。それで僕も1992年ケンブリッジ実験劇場で役者修行を始めた。理論じゃない、実践。数々のワークショップを学ぶ。ロイアル・シェイクスピア・カンパニーのシシリーに巡り会い、ストラトフォードが近くなる。不思議だった。あの頃まさに英国大使館もブリティッシュカウンシルも 世界中の演劇人をイギリスに招き入れて交流させることに熱心で、僕はちょっと考えられないような大物の役者や演出家や照明家や振り付け師や脚本家やプロデューサーとワークショップをしたりワインを飲んだり食事をともにしたりしていた。そういう季節だったんだろうなぁ。シェイクスピアカンパニーはまったく幸運だったとしか言いようがない。イギリスがカンパニーの誕生を支えていてくれていたと言っても言い過ぎではない。だから、日本の東北の小さなアマチュアの劇団と東京に来たロイヤル・シェイクスピアカンパニーの役者の合コンさえ実現し、名だたる演出家がわざわざ仙台まで来てくれて僕たちのためにワークショップをしてくれ、そうだ、結局僕たちはエジンバラまで行ってマクベスを上演して三つ星までとって…それが僕をグローブ座に送り込む大きなきっかけになるんだっけ。カンパニーにはいい仲間が集まりカンパニーは素晴らしい人達に囲まれていた、だから今もあるんだと、しみじみと有り難く思う。誰に感謝してよいのかわからないけれど、ともかく私たちのインスピレーションの源泉に他ならないシェイクスピアさんには御礼を言いたい。有り難うございます。そうだ演出家、セルフメイド。今日久しぶりに役者になって学んだ。思い出したこと。またか~(笑)。だって思い出すことが多いのだもの。グローブ座での演出のこと。リハーサル中イギリス人の演出家は役者をほめる。聞いていてこそばゆくなるほど。演技に注文をつけたい時はまずほめるほめるそして慎重に助言する。僕はこれができなくて失敗(と今は認められるー笑)した。日本人は叱る叱りながら教える。ちがいますか?だから叱られたい私たちがいる。ちがいますか?ほめないでしょ、めったに。ほめ殺しという言葉があるほどですからね。これはもう文化のちがいと言い切ったほうがラクである。今日もコーチはひとりひとりをよく観察してほめてこうしたほうがもっとよいですねと。紳士的というのかなあ、それに比べて日本はだいぶ野蛮だと言える。怒鳴る、昔は殴る蹴る、詰問し罵詈雑言を吐く…だものね。なんだかちょっとヤクザっぼいね(笑)。ビートたけしの映画が日本的だとすれば、なるほどだ。黒澤にもその要素がある。小津安二郎は対極。要するに黒澤と小津は日本のふたつの極の象徴。それにしても、2時間半のワークショップは濃厚かつ有意義であった。僕は昔ワークショップを受けながら、これをそっくり劇団の仲間に伝えようと思っていたからその吸収力は私にしては凄まじいものだった。ノートが1日一冊に及んだもの。今もそして劇団のみんなにゼミ生たちに…という思いでいる。伝える人たちがいることの有り難さと喜び!(2014.8.16)

 
 

イギリス日記#27

二週間ぶりにうみとはなに会う。こんなに離れていたことはないどころか、はなにとっては、おばあちゃんの家でも叔母の家でもない日本語のまったく通じない世界にたったひとりでいたわけだから、とんでもない冒険だ。うみは開口一番海産物が食べたいと。はなはカツ丼と。みんなで予定通りトーキーという避暑地の海岸に向かう。昔ママとふたりで泊まったことがある素敵な港町。そこでチャイニーズを食べる。慰労会。すると緊張がほどけたのか、うみはなかなちゃんの3人から噴水のようにミルフィールド体験が飛び出し始めた。一番仲良しになったのはエルサ、別れる時はなを抱きしめて涙を流したの。うみがうれしかったのは、うみの名前を覚えてくれてるって思った時。フローはうみって最初に呼んでくれて一緒にテニスをしたら仲良しになった。かなはタム。いつも一緒に食事をしてくれたから。食べ物は困ったとみんな声を揃えて言う。リンゴを丸かじりしてるのが面白い。赤じゃなくて緑で小さいし。みんな鼻が高いよね、日本人の顔ってなんで平らなの。おんなじ年には思えないの、みんな男の子とくっついてキスしてるし、あれってよくないよねパパ。ロシア人の英語わかりにくいし中国人は行儀がわるい。はながノートを見せてくれた。実はアルファベットも知らないはな。ペンソーえんぴつクレイゼィ頭おかしいシッダンすわって…生の音に忠実で驚く。ジョン万次郎みたい(笑)。焼きそばがとてもおいしかったようで、うみとかなちゃんの二重奏になる。日本の英語教育批判だ。ドキッ(笑)。会話をさっぱりやらないで文法と読みばっかりやってたらいつまでたっても話せないから恥ずかしい。娘たちは、話せないことの恥ずかしさとつまらなさを痛感したようだ。そのことはひじょーに重い。大収穫。うみが言う。パパ英語で生活しようよ。ドキッ。そうじゃないとだめだよ。はな、毎日はヤダ、日本にいる気がしないもの、ときどきならいいけど。私は東京オリンピックで優勝したマラソンランナーアベベを思い出していた。そして、よし、日本に帰ってからもイギリスをつづけよう!そういう環境をなんとかつくろう!と思った。成田に着いた娘たちはテープを切ったアベベだ。(2014.8.17)

 
 

イギリス日記#28

英国の人生があるような気がしてきた。妙なことかもしれないが、まず20歳からの初めての留学1年半。それから何年も行きたくて行けないイギリスがあった。夢の中ではいつもイギリスの街を歩いていた。そして6年半後の28歳。東北学院大に来る前年の夏日本テレビの仕事で学生を引率して再訪。エクセターには行けなかったけれど、泣きたいほどうれしかった。そして37歳の留学。丸々1年。この時僕の37歳の経験が20歳の経験を呼び寄せて、まるで僕は2年と7ヶ月イギリスに住んでいるような錯覚を持った。それから僕は自分に誓った…毎年イギリスに来ようと。そうイギリス人の友達に告げると、そう言けれど結局何年も来ないよと言われて確かにそうだ日本に戻れば忙しくなって日常にイギリスは埋もれてしまうと確信、イギリスを発った3ヶ月後にイギリスに戻ってきて友達をうならせた。その決意がもたらした効果は大きくて僕は、38歳から3度目の留学の47歳まで毎年の春夏或いは冬の2回イギリスに行くようになる。いよいよイギリスが恋人から単身赴任の夫の女房みたいになる。1年に2ヶ月滞在とすれば通算20ヵ月。だから47歳で3度目の留学を終えた時、5年半もイギリスに住んでいた感覚をもった。だから来る度にイギリスの自分の時間だけが集まってきて同窓会みたいになる。20歳、37歳それからの10年で47歳の僕。そして今58歳の僕。一番新米の僕。かまびすしいなあと思うほどにぎやかになる。忘れていた自分に出会う。つまり忘れていた時代に出会う。なぜイギリスがそんなに好きなのか?やさしく深くおいしいからである。(2014.8.18)

 

 

イギリス日記#29

旅の終着駅ケンブリッジに着く。この強行軍を事故もなく無事終えることができたことを有り難く思う。ケンブリッジ!人にたとえて言うならば、あなたにずっと会いたかった…だ。うみとそうらとハルコの4人で暮らした街、そこでハルコの中にはなが宿った街、シェイクスピア・カンパニーの核が形づくられた街、ダンテが私の中で再生された街、人生で一番幸福な時間を過ごした街。ケンブリッジに到着した時にはもう日が暮れかかっていたが、僕たちはハーベイ・グッドゥイン・ガーデンという美しいフラットにたどり着いて荷物を降ろすと街に飛び出した。かつて家族で暮らした家を、うみが学んだ学校を見たい、と思う思いが7時間の長旅の疲れを越えて歩かせた。うみは興奮したのか、珍しく僕と並んで歩く。そして、パパやっぱりケンブリッジが一番いいね、なんか空気が違うもの、と。でももっと明るかったらよく見えたのにな、と。僕は、明日はちゃんと見えるから大丈夫。懐かしい懐かしい家も学校もこうしてうすら明かりの中で最初は見るほうが夢の中のようでいいじゃない、と。リッチモンドテラス7番の青い扉の前に立つ。11年前の家族のあたたかい匂いを思い出す。今もまだそこにあるように思われる。薄暗いからますます。パパ中に入れない?と、うみ。今うみに記憶の波が押し寄せている。ひとりで歩き出す。小学校はあそこだよね。パパがこの窓からうみをのぞいてた。ちがうよあっち、ああそうか。三階の小さなしかしかわいいフラットに戻る。屋根裏部屋にはなは歓喜。パパとそうらは一階、純ちゃんかなちゃんは二階、はなとうみは三階の屋根裏部屋。この度はいさかいもなく決定(笑)。ハルコが初めてケンブリッジに来た日を思い出す。僕たちは婚約してハルコはケンブリッジに3ヶ月ほど滞在してアフリカに行ったのだけれど、ICUはたまたまケンブリッジにお屋敷を所有していて寮として使っていたのだけれど、ハルコは卒業生でもないのに特別な計らいで屋根裏部屋をいただいた。その時の少女のような喜びよう…こんなところに住んでみたかったの!和ちゃん有り難う。今喜んでいるはなとハルコが重な った。1992年僕はふたつのミッションを持ってケンブリッジに来た。ダンテとシェイクスピア。ケンブリッジ大学は世界のダンテ研究の中枢で、私はどうしてもオリジナルダンテに触れなければならないと思っていた。神曲にはポッカチオ以来の伝統がある。一曲一曲読んでいくという伝統。名だたるカークパトリック博士 が今それをしていると聞いて走った、そして見た、そして聞いたケンブリッジダンテ!濃密さとエネルギーに圧倒される。ロビン・カークパトリック教授は教壇の上を右左と動きながら両腕を時折力強くあげ、天を見るように目をあげる、イタリア語朗誦、地獄煉獄天国古代中世近代イタリアフランスドイツイギリスと縦横無尽。声は低いが音楽のように美しい。私は砂漠で水を飲むように聞いていた。しあわせだと思う暇なぞなくロビン講義に魅せられていた。三度目の講義の後、私はロビンに質問。ロビンはまずそれは面白いとつぶやいて30分も時間を割いて説明してくれた。それから講義が終わる度に私は質問に行く。ある時ロビンはこれは近くのとてもいいパブで説明しましょうと言って車で10分ほどのグランチェスターという村へ連れて行ってくれた。レッドライオン。ビールを飲む。そしてロビンがオックスフォードの出身でシェイクスピアから学問を始めたことを知る。シェイクスピア!とダンテ!ロビンと僕は時間を忘れて語りあった。 11年振りに会うロビン。アメリカの大学での講義に旅立つ直前の貴重な時間だった。子どもたちをほうってはおけないね、んーどうしようかな、イギリスに着いてすぐのロビンとのメールのやりとりはいつどこでどのように会うかだった。直前にメールがくる。いい考えがあるんだ。僕たちが街の中のどこかでダンテとシェイクスピアの話をする、その間子どもは買い物、そうすれば僕たちの退屈な話を聞かなくて済むし、そばにいるから心配しなくていい。しかし、ふたりが静かに話すパブを街の中に見つけることは難しく、純ちゃんがふたりが話しあっている間子どもたちをみてくれることになった。じゃあ、かずみレッドライオンだ!とロビン。2時間があっという間に過ぎた。ロビンが言う。子どもたちとも話がしたいな。30分後僕たちはイタリアンカフェにいた。はなは自ら私はパパのダンテ講義に出ていますと、ロビンに。ロビンは目を丸くして、それはえらいそれはすばらしい、なにか質問はありませんか?と。はなは問う。パパに聞いても答えてくれなかったんですけど、ダンテはほんとに地獄に行ったんですか?ロビンびっくりして戸惑ってちょと待ってくださいね、考えますからね、んー、はい、ダンテが買い物に行ったんですね、お店で卵とかライスとか買ったわけなんですが、それを見たお店の人がね、あれダンテよやっぱり地獄に行ったのはほんとね、だってだいぶ日焼けしてるもの。はなは、そうですか、と。するとロビンはもうひとつの考えはねと言って人差し指で額の真ん中を指して、全部ダンテのここの中で考えたのかもと。はなは矢継ぎ早に、この気さくな世界的ダンテ学者に聞くのです。もしロビン先生がダンテに会えたらなにが聞きたいですか?ロビン笑う、そしてこれは困った、と。そして真面目に、君が書いてることはぜーんぶ間違いだよ、だから地獄に行け!って言われそうだから、はな実は会いたくないんだよ、と。はな笑う。僕はこのロビン・カークパトリック教授を、その名声と権威を飛び越えて、なんて素敵な先生なんだろうと、思った。子どもたちみんな一日ケンブリッジ大学生だったね。(2014.8.19)

イギリス日記#30

家族で英国に一年暮らして感じたのは、食さえ満たすことができれば、英国に永住できるということだった。もっと特化して言えばイカ刺しさえあればイギリスに死ぬまで住めるとを思ったが、それが難しいのだ。11年前と比較して、私が感じる際立った変化は、とりわけロンドンの街の中心に寿司やヌードルを売る店が激増したことだ。回転寿司さえある。コンビニのような店には寿司弁当が置いてあるが、味はこんなもんだろうという風で安くはない。ある劇場で夜の芝居のチケットを買っていたら、チケット売り場のおねえちゃんに出前がきた。寿司弁当である。なんだか妙な気持ちだった。授業参観に父や母ではなく、おばあちゃんが来たような。日本人は自分たちは特殊だという意識がつよいのかもしれなくて、イギリス人から流暢な日本語を聞いたりすると気持ちが悪い。日本食は世界の食べ物の中でも群を抜いて優れている。味が繊細だ。その日本食が世界遺産になったというのは誇らしいことに違いないが、複雑な気持ちにもなる。世界遺産になることは、価値が無比のものとして認められて保護されることなのだろうけれど、一方無闇に日本食がはびこることもとめられず、これが寿司か?これが天ぷらそばか?これがラーメンか?という奇怪な日本食のバリエーションを許さざるを得ない。柔道がオリンピック競技になることで、柔道本来の形が失われ、オリンピック競技ではない剣道では純正さが保たれているのに似ている。日本人が単一民族であることが生んでいる国民性がある。純粋さと繊細さへのこだわりは際立っていないかな。イギリスのように歴史的にも様々なものが明らかに入り混じっていたら、ピュアなどに固執してはいられない。寛大といい加減は裏表。ある程度いい加減じゃないと、様々なものが一緒にはなれない。違いに目をつぶる、許す伝統がだからここにはある。ある程度きっちりと枠や律を作って、後はマナーに任せるのだ。許さない、すぐ文句を言って怒る日本人だからこそ、繊細なものをつくり純粋さを保とうとする力が強いんだねえ。両刃の刃だ。イギリスに1ヶ月ならば、日本食など恋しがらずに、太ってしまってもいいから(笑)フィッシュアンドチップスとイングリッシュブレックファーストとビールを思い切り楽しんだらいいと思うのである。(2014.8.20)

 

 

イギリス日記#31

初めて三人娘そろってグローブ座に連れて行く。うみとそうらは、ママと一緒に僕の芝居を見ているから、正確に言えば初めては、はなだけだけれど、まあみんな初めてみたいなものだ。なんだか嬉しかったのは、子どもたちはこの劇場がパパにとって特別な意味を持っているらしいことを肌で感じているようで、今まで見てきた時とはちがう空気が子どもたちに漂っていた。パパ、ここ写真とってほしい?とはな。いつもはパパと離れて歩くうみが、パパに寄り添って説明を聞こうとし、そうらは僕の手を握って放さない。ガイドツアーを試みる。案内人は役者修行中のマット君。元気がいい、グローブ座が大好き、これまででベストの案内人だね。この劇場は世界でたったひとつの立って見れる劇場。一番安い5ポンドの立ち見が一番だよ、と力説。まったくその通り。マット君続ける。昔はここに何人立ってたと思いますかねみなさん?僕が千人!と答えると、一発であてられちゃつまんないなぁ~とみんなを笑わせ。じゃお客さんに聞くけど、小便はどうしたと思いますか?僕が躊躇していると、嬉しそうな顔で別名小便席つうくらいだからね、そこでたったまんまやったのさ男も女もだよ、と言ってお客さんをうならせた。英語なんだが車寅次郎の口調を思い出す。うみ、天井がないことに気がついて、雨が降ったらどうするの?傘かカッパだよと言うと、あぁパパの時嵐だったそういえば。この劇場で一番えらいの誰?とはな。サム・ワナメーカーだよ、と答えると。シェイクスピアでしょ、とはな。私シーンとなる。でもサムがここを建てたからやっぱりサムだよと言うと、どうしてサムって呼ぶの?と。だってパパとママお会いして親しくなったからね、ほら暖炉のところにお写真があるでしょ、と言うと。娘三人あーっあのおじさん!すごーいと歓声をあげた。ロンドンタクシーでレスタースクエアへ。ジャティンダと再会。イタリアンレストランでピッツァパスタサラダでビール。開口一番カズミヴェニスの商人構想は? ポーシャ実は面白いよねジャティンダと言うと、そうさそこさポーシャは愛バッサーニオは金。ずれてるよね、あのふたりと僕。ずれてる、結婚しないほうがしあわせだよと彼。マクベスからオィディプスまで話が飛んで止まらない、あっでもオペラ座の怪人後20分で始まっちゃうとジャティンダ。古典主義の正統派の演出家の話はいつもすぐ深くなってすぐ熱くなるんだな。日本ならじゃ次は焼き鳥かなつう感じだね。オペラ座の怪人。三度目の舞台だ。ひとりならば安い席でいいが、なんと言ってもロンドンで初めてのミュージカル。一番いい席をとる。第一印象は大きい。 僕はオペラ座の怪人の物語は好きである。ロマンチシズムのエッセンスがあるからだ。芸術と美。しかし、泣いたことはなかったが、怪人の歌声に心をかき乱されて、泣く。声がね素晴らしいの、染み通ってくるんだよ。カーテンコール。僕は立ち上がってスタンディングオベーション。娘たちのことは忘れて(笑)。観客の12人ほどが立ち上がった。拍手が強くなる。ふと左を見ると、娘たちが!立ち上がって拍手をしていた。促したわけじゃない、みずからだ。嬉しかったなぁ。学習してるぞーッてウルウルとなった。劇場を出る時、はなが近寄ってきて、ブラボー!って大きな声で言ったでしょ、恥ずかしかったけど、感動のお芝居なんだって思ってたら、パパみたいに立ってたのと。(2014.8.21)

イギリス日記#32

ケンブリッジ。深く暖かい街である。この街を実は一番よく全身で感じていたうみ、5歳だったうみが、この街でうみを可愛がってくださった人たち…ICUの恩師マシューズ教授ご夫妻、ケンブリッジ日本人会会長の珠子さん、ケンブリッジ大学の文化人類学者でデンマーク人のスージー博士、あの冒険家アムンゼンの孫でノルウェー人のロベルト・アムンゼン…に触れて思い出したはずだ、このケンブリッジにイギリスの魅力のすべてがつまっていることを。スージーにはダウン症の妹がいて、そうらの教育について強いこだわりをもっていた。カズミ、私には妹を施設に入れてしまったという後悔があるの、だから家族のアルバムの中に妹の写真がないの、年をとって妹が家に戻ってきても30年のギャップは埋められないわ、だから大変でもそうらを手放さないで姉や妹たちと一緒にして、と泣きながら訴えたことが、僕とハルコのそうら教育の方向性を決めたと言っていい。スージーは11年前に5歳だったうみと2歳だったそうらとハルコのお腹の中にいて初めて会ったはなを、離れ離れにいた自分の実の娘のように抱きしめてくれた。珠子さんの絶品のお料理、マシューズ教授のマジックとユーモア、マシューズ夫人の手作りケーキにうみが感動していることを妹たちもしっかり感じていた。他ならないママがマシューズ先生ご夫妻珠子さんスージーロベルトのことが大好きで、その思いが自分たちに返されていることを確かに感じたに違いないのだ。ママは生きていると思ったのだ。彼女たちを無償で愛してくれたけれども今はいない母や祖父や祖母の匂いをケンブリッジに暮らすパパとママの古くからの恩師や友に感じて、ケンブリッジをまさに揺りかごのように、自分たち家のように思ったのだ。愛に輝くうみとそうらとはなの笑顔を見ながら、僕がこの娘たちの母をどんなに愛したかをしみじみと思い出していた。この夏のイギリスの旅はもうじき終わる、でもこの2014年の夏の一日一日の英国が彼女たちの人生の原石に、泉に、虹になるだろと、僕は確信している。 (2014.8.22)