早稲田大学校友会設立125周年記念講演

「坪内逍遥のメッセージ:今、ここで、シェークスピア」要旨

 

主宰 下館 和巳

 

 私が、はじめてシェイクスピアを知ったのは、高校一年の夏、仙台の名画座で見たオリビア・ハッセーの『ロミオとジュリエット』。シェイクスピアください!と走り入った本屋には『ハムレット』しかなく、買おうか買うまいか迷って立ち読みした最初の一行は「誰だ!」。木下順二訳。

 その木下順二の講演を、この大隈講堂で聞いたのは大学一年の時。きりりとした目、そして少しくぐもったお声で、「諸君、逍遥さんは、日本でシェイクスピアの全訳、ということは三十七編の戯曲だけではない、物語詩からソネットまで総てを訳したただひとりの人です。明治の初期に二十五歳でシェイクスピアの翻訳を始めてから、死の直前の七十四歳でその仕事を終えるまでの五十年間で、二葉亭四迷から・・・志賀直哉まで、沢山の人が推し進めた言文一致運動の道を、つまり、文語訳から口語訳までの長い道を、シェイクスピアの翻訳の仕事を通して、たった一人で歩まれて、その苦心惨憺の足跡を残しておられるのです・・・」 とつとつと、しかし熱く、逍遥さんをたたえていた。木下順二の声に乗せられた逍遥の名は、私をしびれさせた。帰り道、古本屋で水色の小さな「新修シェークスピア全集全40巻」を見つけ、手に入れた最初の逍遥も『ハムレット』。冒頭の「誰だ?」は、「何者(なにもん)じゃ?」。

 一年後、イギリスに留学。が、逍遥しか読んでいなかった。原文も読んでない。だから、ロイアルシェイクスピアカンパニーの『ロミオとジュリエット』を初めて見ながらも、頭の中で響くのは逍遥のせりふ。いつの間にかシェイクスピアが好きになり、芝居ばかり見て帰国。日本では舞台を見るよりも、原文を読んでいると一番そばにいるような気がした、400年前のシェイクスピアのそばに。

 日本の私の先生は、恩師齊藤和明先生、木下順二、本としていつもそばにあった坪内逍遥。芝居をこれでもかというほど見て、原文を読むと、なぜか一番逍遥のせりふがスットンと心に落ちたのだ。

 晩年の逍遥は、自分の初期の翻訳について、「浄瑠璃まがいの七五調・・・いたってだらしのない自由訳」と正直で謙虚に書いている。『ジュリアス・シーザー』「自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)」では、"Be patient till the last" 「ヤオレ人々静まり侯へ」(1884年)が、「済むまで静粛にしてください」(1934年)と変化、これが逍遥のたどり着いた現代口語。

 逍遥について、井伏鱒二の書より-「先生は私たちに努力しなければいけないといつも教訓された。(ここからは逍遥のことば)『このごろ或る新劇の団体で、三箇月も火花をちらして努力したとプログラムに書いているのを見た。三箇月の努力では幾ら火花をちらしても、たいしたことはあるまいと思っていると、その努力はむくいられなかったといって、不満を述べている。私のごときは五十年も火花をちらして努力をしてきたが、一向にその効果は現れない。芸術の道は遠い。はてしがない、かのごとしである』と教訓される時など、先生は声をしんみり落とし、教場は一層しんとするのであった」。錆び枯れた、名人肌の落語家のような声音。学生に「できません」ということを容易に言わせず、物柔らかに諭しじっと待っている姿。熱のこもった芝居さながらの講義。逍遥のシェイクスピア講義には、いろんな人が聞きに来ていたようだ。先代の柳家小さん師匠、大隈重信・・・。

 私も逍遥が大好きになって、逍遥のバックボーンでもある「近松門左衛門とシェイクスピアの比較研究」をテーマに、修士論文は「オセロと心中天網島」。その後、仙台の母校東北学院から声がかかる。

 仙台に暮らすうちに、お芝居好きはみんなわざわざ東京に行き、劇場といえば多目的ホールだけ、お芝居のためだけの劇場はない、と気づく。そんな中、ある日突然「シェイクスピア創りたいな~」という思いが突き上げてきた、と同時に「ロンドンでグローブ座発掘」のニュース!私の中で何かが急激に動き出す。私は東北に木造の和製グローブ座を作ろうと言い出し、会う人ごとにその話をする。と、「シェイクスピアはよくわからないけれどその劇場は面白そうだ」と、みるみる人が集まってきた。最初は7人、そして30人、150人、300人と。私たちのシェイクスピア・カンパニーはそのようにして生まれた。まだお芝居も作ったことがないのに、まず観客ができたのだ。ドーナッツのように。じゃあ、その真ん中をどうしようか?"that is the question”「なじょすっぺ」。

 私は答えを求めて、逍遥に問う。逍遥が日本のあまたの翻訳者と決定的に違っていたのは何か、それは彼が舞台の脚本家から始まったこと。逍遥は、母に連れられて良く芝居を見に出かけていた-「私は只分けもなく、芝居が面白くて面白くてしやうがなかった」。

《空想の問答》「翻訳の神髄はなんでしょうか?」「シェイクスピアは音楽のようなもので、音は翻訳不可能です。神髄は、台詞の芯、そこに漂う雰囲気と妙味にあるのです。和巳君、横のものをどんなにきれいに縦にしたってだめです。結局、君の体を潜り抜けないといけません。 Fair is foul,foul is fair, きれいはきたない、きたないはきれい、シェイクスピアは英語だが、英語じゃない。でもやっぱり、英語で、英語じゃない。イギリス人だがイギリス人で、イギリス人じゃないんですよ。彼は、お芝居が好きな人間なんです。そこんとこがわかっていれば、シェイクスピアの神髄がおのずと現れるんです。」

 東北に生活し生きている私たちが、そこで同じように生きている人たちに向かってシェイクスピアをやるならば、東北のシェイクスピアを東北の言葉でやるがいい、というのが、逍遥から学んだ真理である。

 1995年、私たちは標準語三分東北弁七分の『ロミオとジュリエット』で、シェイクスピアの海に飛び出した。「言葉には根があるから、土もいる、根こそぎ舞台を東北に移そう」と、二作目『夏の夜の夢』からは完全な翻案の道に入る。

 いよいよ『ハムレット』。随所に感じる戦の匂い、1601年-時代の転換期、舞台は全ヨーロッパ。時と空間のスケールの大きさが不可欠だった。そこで、日本が、東北が、このままではいられなくなった幕末という時代の、思いあふれて行動できずに滅んでいった志士たちの無念さに光をあてようと思った。ハムレットという太陽で、東北の暗がりを照らそうと思ったのだ。

 私たちの舞台は、普通の生活をしつつ、無理せず、創り続けている。そして、たくさんのお客さんの、見えるお顔と聞こえるお声に支えられてきた。恥ずかしがり屋の東北弁は、意味不明であろうかと思うが、音楽のように聞いていただければと存ずる。