大鵬・ON・昭和三十年代

更新日:2013.1.22

作家 丸山修身

 

 今回は、シェイクスピア・カンパニーで現在公演中の『新・ロミオとジュリエット』でも時代背景となっている、昭和三十年代について書こうと前から考えていたが、書き出しが難しかった。この時代は「貧しかったけれども希望に溢れていた時代」と回想されることが多いが、それでは漠然としすぎている。この時代を舞台にとったとされる大ヒットした映画『ALWAYS三丁目の夕日』も、僕から見ると、どうも誇張が目立って嘘っぽかった。これは僕が育ったのが信州の田舎、映画の舞台が東京、という違いが大きかったせいかもしれないが。

  そこへ、1月19日、大鵬が死去したというニュースがテレビ、新聞等で大きく報じられた。僕ははっと気づいた。そうだ、昭和三十年代を語るには、大横綱大鵬をもってすればよい。それと野球のON(オーエヌ)。王貞治と長嶋茂雄である。この三人こそが、スポーツで昭和三十年代を象徴する存在に僕には思われるのだ。当時はまだサッカーはプロ化されておらず、それほど盛んではなかった。したがって大相撲と野球こそが二大プロスポーツであった。

 

 僕は相撲が大好きで、幼い僕をとらえた人生最初の情熱は、将来相撲取りになることだった。土の上でも雪の上でも、実によく相撲をとった。栃錦が好きだったので、同じ春日野部屋の若手有望力士、熊本県天草出身の栃光(後に大関)に宛てて、生涯で最初にして最後のファンレターを書いた。小学校に上がるか上がらない頃である。ひどくたどたどしい字で「おおきくなったら、でしにしてください」ということと「きっときっと、へんじをください」と祈るような気持ちを込めて書き送った。しかし返事はついに来なかった。

 大鵬のことは、十両に上がる頃からよく知っていた。関取になるのを機会に、本名の「納谷」から「大鵬」にしこ名を変え、新聞にその変わったしこ名の由来が載った。それとともに「双葉山の再来」と将来を嘱望(しょくぼう)される有望力士であると大きく報じられたのを、僕はよく覚えている。「大鵬」は、親方が納谷のために、特別に用意していたしこ名だということだった。

その後は、あれよあれよと横綱に駆け上がり、優勝回数は32回、歴代最多を数える。相撲の場所が始まると、ああ、また優勝は大鵬か、となって相撲人気が陰ったほどであった。

 大鵬が入幕したのは昭和三十五年一月、そして横綱に昇進したのが、三十六年十一月である。野球に眼を転ずれば、長嶋茂雄が巨人軍に入団したのが昭和三十三年、たちまちホームランと打点の二冠王の大活躍だった。王貞治の入団は翌三十四年、ホームラン、打点の二冠をとったのが三十七年である。その後打ち立てた数々の金字塔(きんじとう)については、僕がいまさら書くまでもないだろう。

 スポーツ選手が最も輝くのは、頂点を極めた後よりも、颯爽(さっそう)と躍り出て主役に昇りつめていく若い頃である。それがまさに三人の昭和三十年代であった。テレビ草創期にふさわしく、それぞれ男っぷりもよく、雰囲気や身のこなしに独特の華(はな)があった。

 

 僕は少年の頃、大鵬とONの現役時代を何度か見ている。それは何とぜいたくな、胸躍る経験だったことだろう。大鵬でもっとも記憶に残るのは、部屋別総当たり制度が初めて導入された、昭和四十年一月場所、蔵前国技館での初日のことであった。それまでは同門とはあたらず、片男波部屋の関脇玉乃島(のちの横綱玉の海。大鵬は二所ノ関部屋所属で、同門の先輩)とは初顔合わせであった。なんと大鵬は内掛けで敗れ、玉乃島はていねいに頭を下げて倒れた大鵬に手を差し出した。恩返しの意味があったに違いない。立ち上がった大鵬の、がっくり乱れた髷姿(まげすがた)が、何と美しかったことだろう!

 王貞治でいえば、55本の日本最多年間本塁打を記録した昭和三十九年、夏休みで上京した時のこと、対大洋(現横浜ベイスターズ)戦ナイター(ナイトゲーム)である。僕は一試合二本の場外ホームランを見た。ボールはぐーんとすごい勢いで当時の後楽園球場のライトスタンド彼方に消えていき、一緒に見ていた僕の兄は打球を目で追えないほどであった。今でもピンポン玉のように夜空に舞い上がった白球の残像が消えない。それはとても人間がなすこととは思われなかった。当時の王は、飛距離もすさまじかった。

 長嶋茂雄で最も印象がつよいのは、その空振りのすごさである。あれはやはり後楽園球場で行われたオールスターゲームでのことであった。前の打席で長嶋は阪急のエース山田久志投手から左中間の奥深くにライナーで見事なホームランを放っていた。その次の打席のこと、もう一本ねらったのだろうか、ぐっと体が一閃、その空振りの、鋭く、ものすごかったこと! まさに名刀の切れ味という感じがした。球場がわーっと沸いた。おそるべき運動神経だと驚いた。よくもあれで腰を痛めないものだ、と僕は後々まで不思議に思ったものだ。

 

 大鵬とONがヒーローであった時代。それが昭和三十年代であった。それで雰囲気の一端が分かっていただけるのではないか。その一人が亡くなったことは、やはりさびしい。時代はこうして移っていくのだろう。もちろん、人が生きているのであるから、不幸はどの時代にも存在する。

 それにしてもドーム球場の野球はつまらない。ホームランを何本か見たが、夜空を切り裂いてぐーんと鮮烈な白球が昇っていく、あの王貞治のような爽快さがない。「野球」とはよく名づけたもので、やはり野で太陽や風を浴びてやるスポーツだとつくづく僕は思う。