女車掌哀歌

更新日:2012.11.18

作家 丸山修身


 先日、朝日新聞に面白い記事が載った。この6月28日、名古屋市営バスで起こった「事件」の顚末(てんまつ)である。それによると、運転手が乗客の言葉に逆ギレして、蛇行を繰り返した挙げ句、途中でバスを降りてしまい、乗客8人を車中に放置するというとんでもないことが起きた。この逆、乗客が運転手の言動に腹を立ててバスを降りてしまうということは、あり得ることだろう。しかし全く反対の事態が起きたことに僕は驚いたのだ。
 きっかけは実に些細なことであった。運転手は発車の直前に一人の乗客に病院への道を訊ねられ、その説明をしているうちに、出発が1,2分遅れてしまった。それを別の乗客がとがめた。これに運転手は激しく腹を立てたのである。
 元々気の短い運転手だったに違いない。また、遅れを責める乗客の言葉もきつかったのだろう。しかし自らのバスを乗り捨てるとは。その結果、当然のことながら、運転手は懲戒免職となった。また新聞記事によれば、運転手の所属する市バス営業所は、2台、25日間の使用禁止処分を受けたという。ちなみに車中に置き去りにされた8人の乗客は、30分ほど後に代行バスに拾われたそうである。
 この記事を読んで、僕はさまざまなことを思った。考えてみれば、バスの中というのは、一つの小宇宙である。そこでは様々なことが起こりうる。そんなことを、これから思い出すままに書いてみたい。
 
 今は都会では殆どがワンマンバスだが、昔は道路事情も悪く、必ず女車掌が乗っていたものだ。昔だったら、名古屋市営バスの運転手のむかっ腹は、先ず同乗の女車掌に向いたことだろう。「鬼より怖い運転手」という言葉があったそうで、彼女たちはやさしい運転手と組むことをひたすら願うそうだ。
 昭和三十年代初めに、女車掌を明るく歌った、初代コロンビア・ローズの「東京のバスガール」という歌が大ヒットした。みなさんもおそらく「なつかしのメロディー」なんぞで耳にされたことがあるだろうが、こんな歌である。

 

        若い希望も 恋もある 
        ビルの街から 山の手へ
        紺の制服 身につけて
        私は東京の バスガール
        「発車オーライ」
        明るく明るく 走るのよ

 

 ことさら明るく歌い上げているのは、おそらく実際が辛かったからである。僕の従姉妹にも同級生にも、地元長野電鉄のバスの車掌になった者がいたが、意地の悪い運転手がいるという話はよく聞かされたものだ。しかし当時、バスの車掌は田舎の少女達の憧れであった。
 狭い車中で、長時間、男女二人が組んで仕事をするのである。男女問題もあるだろうし、相性というものもある。どんな意地悪をするか、例をあげよう。
 先ず「転がし」というものがある。これは文字通り、急加速、急ブレーキなどをかけて、車内で切符を切っている車掌をわざと転倒させることだ。特に、座っている若い男性客の膝の上にすっぽりと尻がのって、抱っこされる恰好になると、顔から火が出るような恥ずかしさだという。またそれを狙って「転がし」をかける運転手もいるのである。
 次に「追っかけ」というのがある。これは踏切で車掌がバスを降り、線路を渡りきるのを誘導した後、気づかぬふりをして、車掌を置き去りにしたまま遙か二、三百メートルも先に行ってしまうことである。車掌は必死になって後を追いかける。そのみじめさ、恥ずかしさ。運転手は何食わぬ顔で、もう乗ったかと思った、なにをぼやぼやしている、と言うそうだ。
 また昔は停車ボタンなどなかったから、「願います」という車掌の声で停車するのである。しかし運転手は聞こえないふりをして、バス停を通過してしまう。車掌は乗客にひどく怒られる。また、まだ降りない乗客がいるのに、運転手はわざとバスをじりじりと動かし、この場合も、直接怒りが向けられるのは車掌の方である。

 

 最後に、僕が子供の頃、バス車掌の身に起こった、一つの笑うに笑えない悲劇の実話を紹介しよう。あれは安曇野のずっと北方、もう新潟県に近い奥深い山中、大町中土(なかつち)線のバスでの出来事であった。
停車時間があったので車掌がバスを降り、しばらくして戻ってきた。しかし様子がおかしいことに運転手が気づいた。どうしたのか、と訊ねても、何も言わない。そのうち、顔面蒼白となり、倒れてしまった。よくよく運転手が訊ねると、彼女はヤブに用足しにいき、しゃがんだ時、大事なところを蝮(まむし)に噛まれたのである。うら若き乙女のこと、恥ずかしくてそれを言い出せなかったのだ。まむしも、いきなり雨を浴びせられてびっくりしたに違いない。
 結局、この女車掌、病院に緊急搬送され、血清を打ったものの既に手遅れで、あえなく命を落としてしまった。まさに往時を語る哀話である。バスには時代がいっぱい詰まっている。