あの柱のキズが……

更新日時 2018年11月5日 

作家 丸山修身

 

 もう一ヶ月ほど前になるだろうか、長野市にある古民家の移築再生会社・山翠舎(さんすいしゃ)のTさんから、五年ぶりぐらいで電話をいただいた。田舎の家を取り壊した時にお世話になった方である。飯山の奥地にあった家はていねいに解体され、それぞれの部材が熱海・網代温泉に運ばれ、「竹林庵 みずの」という旅館の古木和室として新たに生き長らえることになったのだった。

  

 この家、元々は僻地の農家であったが、最後の二十数年は「富倉食堂」という名の田舎蕎麦の店となっていた。「富倉蕎麦」は、つなぎとしてオヤマボクチという植物の葉の繊維をつかい、僕の郷里の特産である。

 その味が評判となり、今の皇太子殿下をはじめ皇室の方々が近くの斑尾(まだらお)高原にスキーなどでやってこられた時、ひそかに我が家の蕎麦を取り寄せて食べていた。その皇太子殿下、来年は天皇に即位されるということで、僕は時の経過をまざまざと感じるのだ。

 

 一方山翠舎は昭和五年(1930)創業、元々は木工所(建具や)であったが、古木を使って古民家の移築再生を手がける会社へと成長した。デザイン、設計、施工までを一貫して行うのである。ストックしている古木の数は日本一という。

 昨今、山間地には打ち捨てられ、無残に朽ち崩れていく家が多い。これはあまりにも残念で、もったいないことである。今はもうとれなくなったような、ほれぼれする木が使われていることも多いのだ。そういう意味では、山翠舎の試みは、資源と環境の保護保存という点で、時代を先駆けするものといえる。

 

 Tさんの電話に話は戻るが、要件は、昔の我が家の柱に残っていた背(せい)比べのキズを写真に撮りたい、それはどこに使われていた柱だったか、という問いであった。いったい何のために、と僕は不思議だったが、あえて訊き返すことはしなかった。そして問われるままに柱がたっていた場所を答えた。

 それは縁側と茶の間、座敷の間にたっていた三十センチ角ぐらいのケヤキの柱であった。ここに後頭部を押しつけ、本や下敷きを頭の上にあてて高さを計測し、鉛筆で横棒を書いて背丈を印(しる)したのである。

 十人の子供がこれをやったので、その横線が数十本も柱に残っていた。そのことを僕は文章に書いたし、あるいはTさんに直接話したこともあったかもしれない。

 Tさんの話を聞いていて僕はびっくりしたのだが、古民家の移築を専門とする山翠舎では、我が家のどこの柱が「竹林庵 みずの」ではどこにどのように使われたか、すべて記録に残してあるらしい。

 さらにカンナをかけていないということにも驚いた。Tさんがおっしゃるには油を塗ってきれいにはしたが、削らなかったというのだ。しかしこれは考えてみれば当然かもしれない。カンナをかけて表面を削ったら、古木特有の歴史の息づかいがしみこんでいるような渋さ、独特の落ち着いた感じ、は消えてしまう。そうなったらただの材木だ。

 

 Tさんとの電話を終えた後、僕はしみじみとした気持ちになって、大正時代の童謡に『背比べ』という中山晋平作曲のよく知られた歌があったことを思い出した。みなさんもお聞きになったことがあると思う。

 

背比べ 

作詞:海野厚  作曲:中山晋平

 

柱のキズは おととしの

五月五日の 背(せい)比べ

ちまき食べ食べ 兄さんが

計ってくれた 背の丈(たけ)

きのう比べりゃ なんのこと

やっと羽織のひもの丈

 

 五月五日は今は「子供の日」という名の祝日になっているが、元々は「端午(たんご)の節句」で、男の子のすこやかな成長を祝い願う日であった。僕の村ではやらなかったが、ちまきを作ったり鯉のぼりを上げたりする目出たい日だったのだ。そのなんとなく浮き立つ雰囲気が 今もこの歌から感じ取れないだろうか。

 

 その後Tさんからまた電話があった。柱のキズはすっかり薄くなっていたけれども、何とか写真におさめることが出来た、との報せであった。全てもう半世紀以上昔のキズなのだ。よくぞ残っていてくれた、と僕はうれしく、感慨しきりであった。

 それから三週間ほどして、今度はTさんからメールが届いた。そこには写真が何枚も添付されていた。

 それらの写真は、まさに紛れもなく、昔自分が鉛筆で印した柱のキズであった。もう二度と眼にすることはないと思っていた過去が生々しく甦り、僕はしばらくじっと写真に見入っていた。様々な思い出、歓び、哀しみが、どっとせめぎ寄せてきて、胸がしめつけられる思いであった。

 

 メールの内容に戻るが、この度、山翠舎の社長が「EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤー(EY  Entrepreneur  Of  The  Year)」という国際的な表彰制度の代表に選ばれた、といううれしいものであった。「entrepreneur」とは「起業家」という意味だが、元々はフランス語である。

 キズの写真は、この選考審査の時に使われたことを僕は初めて知った。おそらく眼に見えるかたちで業務内容と実績を示したことが、効果があったのだろう。とすれば、僕たちがずっと昔に田舎でやっていた背比べが快挙の一助となった訳で、とりわけうれしいことである。

 ネットで調べると、「EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」の設立趣旨は、「新たな事業領域に挑戦するアントレプレナー(起業家)の努力と功績を称える国際的な表彰制度です。EYはこの活動を通じ、約60か国の魅力あるアントレプレナーの素顔と功績を国内外に発信し続け、現在、世界で最も名誉あるビジネスアワードとして認知されるに至りました。」とあった。

 僕はTさんとともに喜んだ。しかしこれは甲信越地域の選考で、これからさらに日本全国を対象とした最終選考があるという。本番はもちろんこっちで、僕は山翠舎に幸あれと願っている。

 

 Tさんのメールを読んだ後、僕は童謡『背比べ』にまつわることを生々しく思い起こした。というのは、作曲の中山晋平は僕の郷里・飯山の隣の中野市の出身で、僕はその最晩年の姿をすぐ目の前で見ていたからである。

 中山晋平は『シャボン玉』、『てるてる坊主』、『あの町この町』、『砂山』などの童謡の名曲だけでなく、『カチューシャの唄』、『船頭小唄』、『東京行進曲』などのよく知られた歌謡曲もつくっているが、その他、郷里近辺の新民謡も頼まれていくつかつくっていたのだった。

 あれは飯山に市制が敷かれる以前の昭和二十七年(1952)のこと、僕たちの当時の柳原村も、村歌として『柳原音頭』をつくってもらった。そのお披露目に、中山晋平が僕たちの山奥の学校まで菊丸という芸者歌手を伴ってやってきたのである。まず舞台で中山晋平の挨拶があり、菊丸が鈴が鳴るような声で、出来たてほやほやの『柳原音頭』を歌った。

 僕はまだ小学校に上がっていなかったが、とてもえらい人だということで、じっと舞台を見上げていた。でっぷりと太り、血色もよくて、健康そうな人であった。それが東京に帰って一ヶ月ほどして、ぽっくりと亡くなったのである。これには村衆の皆がびっくりしたものだ。

 

 まったく、ひょんなことから甦った背比べの柱のキズ。人の世の先は分からない。そんな感慨にしみじみとふけった、このたびの体験であった。