姨捨(おばすて)山・棄老伝説考

更新日:2017年10月4日

作家 丸山修身

 

先月9月3日、棄老伝説と名月で有名な山・姨捨山に登った。長野県北部、戸倉上山田温泉の裏手にそびえ、標高1252メートル、千曲川や善光寺平が眼下に一望され、別名冠着(かむりき)山である。駅名でいうとJR篠ノ井線の冠着駅下車、松本市と長野市のほぼ中間といえば想像がつきやすいだろうか。

 

登ろうと思い立ったきっかけはまったく突発的だった。その日、NHKのラジオ深夜便を聞いていたら、深夜1時から歌手の美川憲一が登場して深沢七郎の名作『楢山節考』を朗読したのだ。老いた親を山に棄てるという姨捨伝説をモチーフとした、昭和三十一年度、第一回中央公論新人賞受賞作である。

聴いているうちに突然登ることを思い立ち、そのまま眠らずに山支度にかかり、4時30分武蔵小金井駅始発の一番電車で出掛けていった。

この山は初めてではない。今回が三回目か四回目である。コースは充分知っているし、まったく難しい山ではない。何よりも魅力的なのは、山頂からの眺めが素晴らしいことである。

 

この山はすでに昔からさまざまな古典に採り上げられてきた。まず平安時代の『古今和歌集』である。


わが心なぐさめかねつ更科(さらしな)やをばすて山にてる月を見て

                 (よみ人知らず)

 

更科(更級)は現在では蕎麦屋で有名だが、もともとは信州の古い郡の名前であった。「更級郡」は平成十七年に平成大合併で消滅するまで存在した。

姨捨山が登場する古典は数多く、たとえば『更級日記』、『十六夜(いざよい)日記』、世阿弥の謡曲『姨捨』、宗祇、蕪村の句などがよく知られている。しかし「サラシナ」の名をもっとも有名にしたのは芭蕉の『更科紀行』であろう。いわゆる歌枕の旅であった。


山は……西南によこをりふして、すさまじう高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只哀ふかき山の姿なり。……なぐさめかねしと云けむも理(ことわ)りしられて、そぞろにかなしきに、何ゆえにか老たる人をすてたらむとおもふに、いとど涙落そひければ……

                 (芭蕉『更科紀行』 岩波文庫)

 

と、哀情たっぷりである。そして次の二句を残した。


俤(おもかげ)は姨(おば)ひとりなく月の友
いざよひもまださらしなの郡(こほり)哉

 

また現在でも、高浜虚子の「更級や姨捨山の月ぞこれ」の句碑が山頂に建っている。

 

しかしどうしてこの地方に、老いた親を山に棄てるなどという話が連綿と伝えられてきたのだろう。それが僕の疑問だった。

ちなみに地元では決して「姨捨山」とは呼ばないのだ。もっぱら「冠着山」である。以前僕が地元の老女に道で訊ねた時、姨捨山というのはこの山ではない、他にあるのだ、という口吻(こうふん)であった。

この気持ち、実によく解る。親を山に棄てるなどという話は、地元民にとってはとんでもない不名誉なことだ。それこそバチあたりであり、地獄におちても仕方がない鬼畜の所業である。みなさんも、もし生まれ育った地に、昔、山に老いぼれた親を棄てていたなどという話が伝わっていたとしたら、それを隠したくなることだろう。

 

親棄ての話は東北にもあった。柳田國男はそれを『遠野物語111』に書いている。いわゆる「デンデラ野」である。一般にこれに京都の風葬の地であった「蓮台野」の字をあてているが、僕にいわせればこれは正確ではない。結びつけるのにかなり無理がある。というのは「デンデーラ」、「デンデーロ」というのは、山地には比較的よくある地名だからである。デンは「天」、「デーラ」、「デーロ」はおそらく「平」の謂(いい)であろう。したがって、「山に上にひらけた、平地に近いなだらかな土地」を意味することになる。これはあくまでも僕の考えだ。というのも、僕が実際に知っているデンデーラは、この地形なのだ。

 

姨捨山も、初めてこの山に登った三十年近く前とは、野面(のづら)雰囲気が大きく変わっていた。減反と後継者不足である。かつての豊かだった一面の田んぼは、稲の代わりにソバが植えられ、白く花ざかりであった。そのソバは、田んぼを荒れさせておくのはもったいないからタネをまいたという感じで、勢いがなかった。無理もない。働いているのが老人ばかりなのだ。

そんな野道を歩いていくと、やがて静かな林間に入り、大きくカーブを繰り返して上っていく。山の木は落葉樹の他にアカマツが多い。松茸がとれるのだろう。無断で入ると「罰金50万円」との警告表示がある。

二時間ほどで頂上に立った。誰もいない。青空の下、ふかい静寂の中に涼風が寄せてきて、汗ばんだ体に心地よい。眼下に、屋代、松代、川中島、篠ノ井、稲荷山などの善光寺平が一望される。長野市もその向こうに眺められる。さらに遠く志賀高原や菅平の山々。実に素晴らしい眺望である。

 

その山上で、僕はふっと考えた。この山のふもとの村々が、食うにも困る特別貧しい村だとは思われない。僕が歩いて実感したところ、逆である。それがなぜ? 

姨捨―これはぎりぎりの乏しい食糧で飢饉を怖れて暮らしている中で、ものを生産しなくなった人にいかに対処するかという、古今東西、普遍的な問題である。

親棄て、親殺し、緩慢な自殺。それは確実にあった。飢えが極まれば、親や子供も殺して肉も食らうのが人間である。遠い話ではない。先の大戦中、南方の島々やインパールでのそのような話が、今もひそひそと伝えられている。

 

実際に親を棄てた村では、それは誰にも語り伝えられることなく、歴史から消えていったのであろう。それが、むしろ比較的余裕があった村にこそひっそりと伝えられて、やがて伝説となっていったのではないか。この村は、昔は耕地が豊かに開け、水や山の幸(さち)にもめぐまれて、さして大きな不安はなかったはずである。

これはあくまでも僕の想像であるが。

 

最後に一言。姨捨山はいい山ですよ。木下恵介、今村昌平両監督の映画『楢山節考』では、ひどくおどろおどろしい、不気味な山として描かれていた。山中に骸骨がごろごろ転がり、カラスが舞っているのである。

しかし実際はそんなことはない。もしみなさんの中に山好きな方がおられて、あっちに行かれる機会があったら、登ってみていただきたい。決して期待を裏切らないはずだから。