助かった!と思ったこと

更新日:2014年1月24日

作家 丸山修身

 

 人は誰しも、あの時は死んでいたかもしれない、と思う体験が何度かあるのではないか。今生きているのはたまたま運が良かったからだ、偶然によって現在も生き長らえている、と感じられる、ぎりぎりの瞬間である。
 僕にもいくつかある。今回は、その中でも特に、あの時は命拾いしたなあ、と思い出すたびにぞっとする出来事を二つ書くことにする。

    その一つは5歳の時に起こった。ギンナンの生焼けを食べて、まさに死の淵までいったのである。ギンナン、つまり銀杏(イチョウ)の実である。
    あれは晩秋のことで、僕は母と一緒に同じ村の母の妹の家に行った。秋の穫り入れも済んで、おそらくお茶飲みにでもいったのだろう。叔母の家では、その秋にとれたギンナンを焙烙(ほうろく)で煎って食べさせてくれた。これが生焼け、つまり芯までよく火が通っていなかったのである。
    ギンナンによる中毒というのはそれまで我が家の親も経験がなく、村人も知らなかったようである。隣村から往診に来てくれた若い女医がぐったりとなった僕を診て、これはギンナンの中毒だ、生焼けのギンナンには青酸性の毒がある、と言ったという。
    僕は何日間かの記憶がとんでいるが、この間に姉が詠んだ短歌が残っている。
   

     死ぬるかも知れぬ命と思いつつリンゴ摺(す)る手に涙が落ちぬ
    
    多分姉は、僕に与えるつもりで、リンゴをすったのだろう。しかし僕はとてもものなど口に出来る状態ではなかった。女医さんは僕の瞳に懐中電灯の光をあてて、この子はもうダメかも知れない、と洩らしたという。瞳孔に光線をあてて生体反応を探ったのである。つまり非常に危険な状態だったことになる。家族はみなこの時、僕がもうすぐ死ぬ、と覚悟したそうだ。
    それが生還できたのは、瀬戸際で、飲ませた下剤が効いたからだ。つまり腹の中のものがどっと排泄され、毒が下ったのだ。
    僕は意識が戻った時の情景を憶えている。寝かされていたのは座敷の真ん中で、天井から白いガラスの笠の電球が下がっていた。その僕を、家の全員が覗き込んでいた。すると僕は小さな声で歌を歌い始めた。
    
     月が出た出た 月が出た よいよい
         三池炭鉱の上に出た
         あんまり煙突が高いので
         さぞや お月さん 煙たーかろ
         さの よいよい
    
    『炭坑節』である。石炭は当時の花形産業で、幼い僕の十八番(おはこ)だったのだ。それにしても、なぜおはこにまでなったのか自分でも不可解だが、おそらく隣部落に小さな亜炭の炭鉱があったからだろう。特に気に入っていたのは、煙突がとても高いので月も煙たいだろう、というくだりであった。僕はバベルの塔のような、途方もない高さの煙突を空想していたのであった。
    やっと聴き取れるような声で『炭坑節』を口ずさむ僕を見下ろして、家族は安堵で胸をなで下ろし、もう大丈夫と確信したという。
    
    小説では、北九州小倉出身の作家・岩下俊作の『富島松五郎伝』(映画や歌にもなった『無法松の一生』の原作である)に、次のような場面がある。松五郎(無法松)が、彼が秘かに想いを寄せる未亡人の一人息子に語りかける。
   

     「おい、坊ん坊ん、銀杏(ぎんなん)の実を食わんか」
         「銀杏の実を子供が食うと毒になるとお母さんが云ったよ」
             「あまり食うたら悪いけんど、少しくらいはええわい。……坊ん坊ん、心配
            せんでもええ、小父さんも食うけ」と、残りの実を口の中に放り込んだ。
    
    ギンナンの半生が毒ということは、今も僕には謎である。どんな医学事典、植物図鑑、食物の本、にも載っていないのだ。食べ過ぎはよくないという話はよく聞くが、実に不思議だ。これは今後も調べてみたい。
    しかし実際に生き返った者としては、どうか食べる時は、芯が透き通るまでよく火を通していただきたい、というのが切なる思いである。
    
    もう一つの命拾いの体験は、短かったサラリーマン時代に起こった。これは大事故であったから、日にちもはっきりとしている。昭和47年(1972)、11月11日、場所は神奈川県川崎市生田(いくた)の崖地である。
    当時の科学技術庁を始めとする国の四つの研究機関が、合同で、斜面に大量の水を注ぎ続け、人工の土砂崩れを起こす実験を行った。下では報道関係者や研究所の人達が安全地帯を設置して見守っていた。崖の高さは20メートル、斜面角度は30度、地面から頂上まで70メートル、7時間かかって総放水量が200ミリに達した時、ついに土砂崩れが発生した。
    しかしそれは予想した規模をはるかに超えて押し出した。その結果、下にいたNHKのカメラマンを始め4名の報道関係者、11人の実験関係者、あわせて15名が土砂に飲み込まれて犠牲となった。責任をとって科学技術庁長官が辞任した。
    僕はその時、岩波映画製作所という主に科学教育映画をつくる会社の新入社員で、ちょうど神奈川県教育委員会の委嘱で『神奈川の気象』という映画を撮っていた。同じ県内でも、横浜と湘南と箱根とではいかに季候が異なるかということを、ずっと撮影していたのである。その立場からすると、大雨による土砂崩れの場面は喉から手がでるほど欲しい映像であった。
    助かったのは、ただただ、当日実験が行われることを知らなかったためである。知っていたら確実に死んでいた。特に僕は新米の助監督であったから、一番前に出て粘って構え、真っ先に大量の土砂の下敷きになったはずである。
    
    そんな過去を振り返ると、今こうして生きているのは夢ではないか、とふっと感じられる時がある。そしてシェイクスピアの次の言葉を、ささやかな慰めとして思い出す。

     われわれは夢と同じように造りなされた存在で、われわれの小さな生は眠りに包まれている。

     (『テンペスト』)

 みなさんもふっと、このように、自分の生が茫茫と感じられる瞬間がないだろうか。シェイクスピアは、自然をさらに超えるもの、超自然を深く知っていた。