我が家が熱海に

更新日:2013年9月26日

作家 丸山修身

 

    郷里の生家が、熱海(あたみ)で温泉宿として生まれ変わることになった。熱海市網代(あじろ)温泉の、『竹林庵 みずの』という温泉旅館である。先日9月20日、そこの社長さんが田舎の家を最終確認に見に来られ、僕も挨拶を兼ねて、様々家の来歴を説明するために帰郷した。その結果、古材を使った旅館別邸として、命長らえることが正式に決まった。
    伊豆半島付け根の風光明媚な高台である。眼前に一望される太平洋には、すぐそこに饅頭(まんじゅう)のような形に初島が浮かんでいる。波が陽光を受けてきらきらと輝く、この辺りの相模湾の大海原は実に素晴らしい。
    
    箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ
    
    鎌倉幕府第三代将軍・源実朝のこの有名な歌(『金槐和歌集』)は、初島の眺めを詠んだものである。実朝も、うっとりするばかりの眺望の素晴らしさに感動したのではないか。

 この家、本来は宮城県に買われていくはずであった。話が具体的に進まなかったので、間に入った古民家専門の移築再生業者(長野市・山翠社)から詳しい話は聞かなかったが、相手の方は宮城県で工務店を経営されている人であった。3月11日の津波で、自宅も、貯えておいた古材も、すべて失ったのだという。仙台より北と聞いたから、おそらく石巻とか気仙沼、南三陸辺りの人なのだろう。仕事にも使いたいし、自分の家も古材を使って建てたいという話であった。それが、この秋の大雨で、壊れて緊急に修理を依頼してくる家が続出、忙しくて社長さんが我が家を見に来る時間がとれなくなったのだ。
 我が家としては、今年、雪が降る前に取り壊したいというのが条件であった。というのは去年も無人で冬を越しており、屋根も傷み始めたからである。家は人が住まなくなればすぐダメになる
 そういう次第で、宮城県の人から、熱海の旅館に優先順序を変更して話を進めることになったのだった。現在家を継いでいるのは、兄の長女、僕の姪で、ずっと前に家を出て長野市郊外に家を構えている。ちなみに僕は、高校に進学する際に家を出て、長野市内で暮らし始めた。

    中学生ぐらいまでは、自分の生まれ育った家がなくなるなどとは、想像だにしなかった。しかし次第に、いつかこの日がくることがはっきり予見できるようになった。元々が農家で、山間僻地の米作りがいずれ立ちゆかなくなることは分かりきったことであった。
    そこで兄夫婦は百姓に見切りをつけ、二十数年前から、家の座敷と茶の間をそのまま使って、『富倉(とみくら)食堂』という名前で田舎の蕎麦(そば)屋を始めた。昔ながらの、手作り蕎麦である。
 富倉蕎麦の最大の特徴は、オヤマボクチというキク科の植物の葉っぱの繊維をつなぎに使うことである。葉っぱをよく乾して、叩いたり揉んだりして繊維を取り出すのだ。
    オヤマボクチの葉はゴボウの葉にそっくりで、地元では「山ゴンボ(ゴボウ)」と呼んでいた。幼かった僕は母親について、よく山に山ゴンボを採りにいったものである。母親は早くに亡くなったが、静かな山で共に過ごした数少ない楽しい思い出として、今も心にくっきりと残っている。
    
    この蕎麦が評判となり、やがて皇室の方々が近くの斑尾(まだらお)高原のホテルにスキーなどで来られた時、食膳に供されることとなった。僕の兄嫁、つまり家を継いだ兄の妻、名前はハナ子さんが、蕎麦の名人だったのである。皇太子(浩宮)殿下夫妻、秋篠宮殿下夫妻、常陸宮殿下夫妻、高円宮殿下夫妻などが斑尾に来られると、必ず我が家の蕎麦に舌鼓をうったという。
    ホテル関係者が我が家に注文して打った蕎麦を持ち帰り、茹でて供するのだが、決して皇室関係とは言わない。だからハナ子さんは、まさか皇室の方々が自分の打った蕎麦を食べているとは、夢にも思っていなかった。しかし兄は気づいていたようである。だが絶対に口外しなかった。僕もこのことは後になって知ったのである。
    そんな蕎麦であるが、僕は田舎にいた時、蕎麦は好きではなく、あまり食べなかった。蕎麦は貧乏人の食うものだと思い込んでいたのである。蕎麦がとてもうまいものだと感じるようになったのは、大学進学のため東京に出て来てからだ。
    蕎麦をやめた理由は、夫婦ともに高齢になったからである。十一人兄弟なので、兄とはいっても僕とは二十歳近く年が違い、現在入院中、ハナ子さんも介護を受ける身である。朝早く起きて、ねん棒で何枚も蕎麦を平たく打つのであるから、大汗をかく大変な重労働なのだ。とにかく昔のままに、手抜きをしない主義であった。
    
    以前から考えていたことであるが、ただ重機で押しつぶして家を朽ちさせることだけはしたくなかった。というのは、僕の眼から見てもほれぼれするような部材を使っていたからである。豪雪地帯なので、がっしりと家をつくってある。
    何本もの太いケヤキの柱。天井に巡らされた頑丈な梁(はり)。節(ふし)ひとつない、長く分厚い指鴨居(さしかもい)。これらはいずれも我が家の持ち山から伐(き)り出したと聞いている。床の間には、この地方では珍しい槐(えんじゅ)を使っていた。  
    今はもうこれほど見事な普請をする大工がいるとは思われない。蕎麦を食べにきた客の中に、この佇まいを見て、将来売って欲しいという人が何人もいたそうだ。そこで姪と相談して、古民家再生の専門会社に処理を依頼したのである。
    
    熱海の社長さんが見えた日、その山翠社(さんすいしゃ)の会長さんも我が家に見えて、しみじみと、「木というのは生きものなんですよ」と語っておられた。さらにその会長さんがおっしゃるには「熱海の社長さん、今日はいい部材が見つかってとても機嫌がいいですよ」とのことであった。何にもましてうれしい言葉であった。
    僕は熱海の社長さんに家の庭先に立って訊ねた。
「うちの木がどこにどのように使われているか、見て分かりますか?」
「ああ、それはすぐ分かります。いちばん目立つところに使います。建ったら連絡しますよ」
「じゃ、僕、きっと泊まりに行きます。姪の家族も連れていきますよ」
「ああ、ぜひいらっしゃってください。お待ちしていますから」

    幼い僕が相撲取りにあこがれて、さかんにてっぽう(突っ張り)の稽古をしたケヤキの大柱。兄たちと背比べをして、鉛筆で高さを刻んだ縁側の柱。それらが、うっとりするほど景色がいい小高い海辺で、どのような姿に甦っているか、今から再会するのが楽しみである。