死刑囚・坂口弘

更新日:2013年8月23日

作家 丸山修身

 

    わが頭蓋に太鼓の響き高鳴りて声挙げんとす判決の朝
    誤りを糺(ただ)し来たれど足らざると思いて受けん死刑宣告を
    今宵われ死囚となりてまばたきの音あざあざと床に聴きおり

    1993年2月19日、最高裁で死刑判決が下った日、坂口弘が詠んだ短歌である。坂口弘―若いみなさんはこの名前を聞いたことがあるだろうか。僕たち団塊の世代にとって、いや、戦後の高度成長の時代を生きた人間にとって、この名は鋭い刃物で刻まれたように胸から消えない。
    坂口弘を簡単に紹介する。昭和21年(1946)千葉県富津市に生まれる。僕の一つ年上である。県立木更津高校卒業後、昭和40年(1965)に東京水産大学(現東京海洋大学)に入学している。ちなみにこの年の大学短大進学率は約25パーセント、つまり40人クラスだったら10人しか大学短大に進まなかったことになる。
    過激な左翼運動に身を投じ、闘争の過程で多数の同士殺人に関わった。警察に山中に追い詰められ、極限の異様な精神状態の中で、12名の同士を「総括(そうかつ)」の名の下にリンチにかけ、殺害した。いわゆる「連合赤軍事件」である。
    
    総括は気絶したらば成し得ると撲りに撲る真摯な友を
    床下に縛りし彼女も死にゆきぬ重石に拉(ひし)がれ吾声も出ず
    六名の死にたる後も法則のごとく再びリンチ始まる
    血を拭いシーツ直しつ山小屋に朝日入り来てリンチ長しも
    総括をされて死ねるかえいままよと吾は罪なき友を刺したり
    
    さらに厳寒の雪の中を逃走の果て、軽井沢にある河合楽器の保養施設に銃をもって押し入り、管理人の妻を人質に10日間にわたって立てこもった。警官隊と銃撃戦を繰り広げ、警官二人、民間人一人の死者をだした末、逮捕されている。いわゆる「あさま山荘事件」である。この経過はテレビで刻々と生中継され、ほぼ全ての国民がテレビの前に釘付けになった。みなさんも、大きな鉄球を打ちつけて山荘の壁を砕くシーンを、何かの回想番組で御覧になったことがあるだろう。確か、テレビとして、現在までもっとも高い視聴率を記録した報道だったと記憶している。1972年2月28日のことであった。
    
    ドア破り銃突き出して押入れば美貌の婦人茫然と居き
    窓壊し散弾銃を突き出でし写真の吾はわれにてありたり
    T君の死を知らぬ父上の呼掛けを籠城の吾ら俯きて聞く
    闘いは激しかるともわが心燃えつきし思いさらになかりき
    
    裁判によると、坂口弘が殺人に関わったのは、他の事件も合わせて総計17名である。それらの多くが、志を同じくするはずの同士であったことが、なんとも陰惨で、救い難い思いにさせる。殺された側はもちろん痛々しく哀れであるが、殺した側に対しても、なんともやりきれない暗黒の思いにさせることが、同時代を生きた者としての僕の実感である。
    
    僕は坂口弘の子供時代を想像できるように思う。勉強がよく出来て、正義感が強い、しかし不器用な少年。曲がったことが嫌いで、利害を度外視して目的に突き進むタイプ。こういうタイプは、高校時代も大学時代も、僕の周囲に存在した。どちらかというと、あまり普段社会情勢に関心がないかのような、理科系の無口な人間に多かった。それがある時からヘルメットをかぶり、ゲバ棒を持って過激に一変したのを、僕は何人も見ている。
    社会の矛盾に怒りを感じて正面から全力で立ち向かおうとする。矛盾を抱えながら、中途半端な思いで生きていくことが容易に出来ない人間もいるのだ。こういうタイプは、最近の若者には見られなくなったように思う。
    
    人前で話も出来ぬ口べたがやむにやまれず左翼になりたり
    小心と負けず嫌いが同居して対人恐怖の吾となりたり
    遊び心を知らねば狭き視野なりと吾を評して君は言うなり
    被告なれど生ける吾が身のありがたし亡き同士らはものを言えざり
    幻想に生きし指導者死の際も革命を思えと吾に言いたり
    
    当時の最大の社会矛盾、政治問題、それは僕の眼から見て、アメリカがベトナム相手に戦争をしていたことであった。(ベトナム戦争) 「資本主義と社会主義の対立」などという以前に、世界一の超大国アメリカが、アジアの貧しい農業国をいじめているように映ったのだ。その背景には「敗戦国としての日本」という意識があった。当時の学生運動、革命運動は、この共通認識から出発したと僕は考えている。大学進学者が当時少数であったことからも知れるように、自分たちが何とかしなければ、というエリート意識がその背後に存在した。この闘争の過程で様々な流れが派生して、その一つが坂口弘が関わることとなった、一連の連合赤軍事件となったのである。人はどんなことで全く道が違ってしまうか分からない。
    
    もし坂口弘が異なった道を歩んだら、と僕はふっと想像することがある。多分、有能で社会に大きな益をもたらす存在になったに相違ない。無能な上司と激しく衝突することもあったはずだ。きびしいけれども思いやりのある上司となって、部下に慕われたと思う。トップに立てば、よく導いて会社や組織を発展させたことだろう。ひょっとしたら、屋台なんぞで僕と袖をすり合わせて、良き飲み友達ともなったかも知れない。―これは僕の想像であり、夢でもある。
    
    坂口弘に関してはとてもコラムの短文では書ききれない。それでも敢えて書こうと思い立ったのは、彼の短歌を通して何か感じていただくことがあればと願ったからである。彼の短歌は決して器用なものではない。
    最後に、「二十歳の旅」と小見出しがある何首かを紹介して、この文を終える。いずれも、もう外に出ることはあるまいと覚悟して、獄中で詠んだ歌である。
     
    夢のなか母の手首をわが手もて握れば吾より太くありたり
    古里は安らう家のあらざるに夢のおりふし帰り行くかも
    人屋にて雨みておれば古里の駅舎に降れる雨をし想う
    地図帳の伊豆のあたりを眺むればさ迷いしかの二十歳の旅
     
(引用した短歌は、朝日新聞社刊『坂口弘 歌稿』(1993)に拠った。坂口弘は現在、東京拘置所にて存命中である)