再びシェイクスピアの国で
~ 総本山へ乗り込む ~



(2) 2002年11月22日掲載   
忍耐の大切さ噛みしめる



認識の甘さ思い知る

 公演当日のロンドンは、みぞうの嵐に見舞われた。グローブ座の舞台と桟敷席以外は青天井で、ヤードと呼ばれる舞台の目の前の立見席の観客は、雨がっぱをかぶることになった。立ち見客の観客の一人となった私の心の中は、しかし、既に嵐の後だった。舞台で熱演する役者たちの演技を見つめながら、私の脳裏を、激しかった1ヶ月が走馬灯のように巡っていた。
 ロンドンに来る前に私が思っていたこと、それは世界中の役者たちと楽しく芝居をつくりたい、ということだった。が、それは甘すぎたことを知るのに一日もかからなかった。グローブ座は、舞台制作という真剣勝負の戦場だったからだ。
 「オセロ」の稽古(けいこ)の時だ。私はイギリス人の役者のある演技に「そのせりふはデズデモーナにだけ向けられているわけではないでしょう」とコメントすると、彼は私の唐突な批判に顔をこわばらせた。
 私は、そのせりふが、妻であるデズデモーナと同時にオセロ自身にも向けられていることを滔々(とうとう)と説いた。しかし、私の確信をもった言い方が、たちまち他の役者たちに緊張した重苦しい空気を生みだしたことを感じた。
 「ハムレット」の稽古の時は、ある女優のせりふに対して「もっとニュートラルに」というコメントを出した。その一言で彼女は私に反抗的な視線を向けた。私の中にあるシェイクスピアの世界を役者たちに具体的に求めようとすればするほど、私と役者たちのコミュニケーションがぎくしゃくしていくのがわかった。私は、のっけから孤立感を覚え、演出家としての自分に自信を失い始めていた。


コメント前にほめる

 ある朝、身体のスペシャリストの訓練をのぞいた。彼女は、まず、必ず役者をほめた。どんなにひどくてもだ。ブリリアント、ワンダフル、エクセレント…。それぞれの役者に違ったほめ言葉を、それも微笑みながらだ。それから、まどろっこしい言い回しで問題点を指摘し励ます。私は彼女に「どうしてそんなにやさしいのか?」と尋ねたことがある。すると、神妙な顔で「しかっても何も育たないわ。私たちの仕事は、私たちの思いが最終的にうまく伝わるような状態に役者を導くことでしょう」と語った。
 いいと思ったことは、すぐやってみることに限る。私は次の稽古から、コメントの前にほめる努力をした。だがどうも取って付けたようで言いながら恥ずかしかった。年季がいるのだ。役者たちとの関係は相変わらずだったが、私の言い方がぎこちなくても、ほめ始めると、役者は心なしか柔らかくなった。


役者たちの演技尊重

 ある夜、グローブ座の演出家に助言を求めた。彼は言葉を選びながらこう話してくれた。「これは僕の考えだけれども、役者の演技のひとつひとつは、彼らの鋭い直感と深い思考から生みだされているから、そのことをまず尊重しなければね。演出家の思いは、ぎりぎりまで具体的に表現しないほうがいいんじゃないかな。演出しようとしない演出というのかな、それが役者たちをかえって刺激するかもね。演出家は忍耐だよ。」
 私は、彼の言葉をしみじみと噛(か)みしめながら、演出することよりも、しないでいることのほうがはるかに至難と思った。
 公演は9百人の観客をえて成功に終わった。しかし私は、観客の拍手を聞きながら、棒高跳びで自己記録をはるかに上回る高さを飛び越えた喜びというよりは、そうして着地した時に折った数本のろっ骨の痛みを感じていた。
 それでも、グローブ座は素晴らしい!