下館和巳のイギリス日記




Vol.16   2003.7.21

    ハムレット・トラディッション

 ケンブリッジはロンドンに行くにも、ヨーロッパ大陸に 行くにも大変便利な街である。ロンドンまでノンストップ の急行で45分、近くのスタンステッド空港から発てばパ リ、コペンハーゲン、デュッセルドルフまでは一時間弱だ。 週末を避けた早朝であれば往復料金は一万円でおつりがく る。

 イギリスにいる間に訪れなければならない、と気になっ ていた街があった。それはデュッセルドルフのそばのノイスと いう小さな街だ。この街にはもう一つのグローブ座がある、と いうのを耳にしたのは、エディンバラで僕達の『マクベス』 を見てその街に招待してくれようとしたプロデュサーのライ ナーさんからであった。

 七月は、そのグロ-ブ座でシェイクスピア祭があると聞いて 行ってみた。とてつもなく暑かったが、ビールとソーセージが うまく、てっきり髭をはやした熊さんみたいなおじいちゃん、 と思い込んでいたライナーさんは、ダンディなおじさまであっ た。特等席で『ハムレット』を見せていただいた。初日である。 冒頭シーンを見て驚いた。三日前にロンドンのパブの二階で見 たものと全く同じ『ハムレット』だったからだ。

 イギリスに上陸してから、もうかれこれ150本は舞台を 見ている。古典劇、現代劇、ミュージカル、オペラ、クラッ シック・バレー、モダンバレー、スタンドアップ、コメディ …。しかし、肝心の『ハムレット』の観劇数は意外に少 なかった。イギリスの南から、北から、東から、西から、 『ハムレット』という名前を聞けばすぐ飛んで行ったにも関 わらずだ。このイギリスでも、『ハムレット』はやはり人気が ある、が容易に手を出せない芝居なのだ。

 あの名優ジョン・ギルグッドが”the Hamlet tradition”という言 葉を残した。

 その伝統を知った上で、敢えて創るということは、どんなレヴ ェルでも至難なのだ。覚悟と勇気がいる。ところが、五月になって にわかに『ハムレット』の上演が増えた。暇な僕もたちまち忙しく なった。

 その証拠に、このところ立て続けにもう10本も『ハムレット』 見ている。これでもか、これでもかと見ている。打ち上げ花火を 見上げるように。原文を読む、芝居を見る、これを只管繰り返し ていると、コールリッジ、ハズリット、ブラドレー、W.ナイト、 グランヴィル・バーカーと言った目利きの言葉を、パブで地下鉄 で自宅の屋根裏部屋で、おのずと読み返したくなって読む。そん な折に、ロンドンのフリンジのパブの二階で、久しぶりに、いい 『ハムレット』に出会って息を飲んだ。

 ドイツのノイスでその『ハムレット』に再会するとは思わなかっ た。女性だけの『ハムレット』だ。どこか粗っぽいのだが、新鮮 なのだ。まるでデンマークの青年みたいな顔つきのハムレットが、 ともかくいい。顔じゃない、情熱が静かで、その溢れ方が自然なのだ。 芝居の後に、ライナーさんが、その劇団のプロデューサーと演出家、 そして女優陣を紹介してくれて、気がつけば皆と一緒に飲んでいた。 しみじみと熱く『ハムレット』を語り合った。

 演出のスティーヴが「伝統を無視した創り方でした」と言う。そうか、 だからよかったんだ、と思いながら、酔った。酔いつつ、実にプロフェ ショナルな女優たちと話しつつ、彼女たちがまことにたくさんの『ハムレット』 を見、深く『ハムレット』を読んでいることに気づき始めて、伝統を知ってな きゃ無視もできないんだよね、と単純な誤解に酔いが覚めそうになった。

 でも、いい夜だった。早く、カンパ二―で芝居が創りたいと体が久しぶりに 芯から熱くなった。