下館和巳のイギリス日記




Vol.13   2003.6.20

    外国に暮らすということ

 外国に初めて来た時には、何もかも新しく眩しく感じられてドキドキしている。時差ボケのせい もあって、夢か現か・・と戸惑いつつ一週間が瞬く間に過ぎて、気がつけば日本の日常にいる。そ して、ああ、やっぱり夢だったんだとも思える。

 一年というのも短いには違いないが、外食ではなく自炊となって、市民税も払うとなれば、 いやおうなしに旅人の感覚から住人のそれに変わっていく。住人となって、三ヶ月もするとメマイは やわらぎ、ドキドキも薄らぎ始める。しかし、メマイとドキドキの季節に見て感じるものは、スバラ シイ。

 僕なんか、20歳の時に初めて、アコガレにアコガレたイギリスに上陸した時は、言葉を学びだしたヘ レン・ケラーよろしく、風が吹けば、「これがwindかー」水に触れば「これがwaterだ」と、 いちいち感動して毎日ヘトヘトになっていた。ヘトヘトになって喜んでいた。初めてイギリスで見た シェイクスピア劇は、オックスフォード大学エクセター・コレッジの夜の野外劇『ロミオとジュリエ ット』だったが、その何ともロマンテックな雰囲気も手伝って、僕はほとんど気絶しかかっていた、 と言っても過言ではない。ウレシクテウレシクテ、ローズヒルの下宿まで一時間歩きながら、独り言 を言い続けていた。ロミオみたいに、僕はイギリスにいた一年半は興奮しっぱなしであった。だから、 日本に帰るのがどんなに辛かったかしれない。恋人と無理矢理別れるような切ない気持ちだった。

 あれから27年が過ぎて、ロミオからハムレットを越えクローディアスに近い年になり、今こうしてま たイギリスにいて、あのわけのわからない感動を懐かしく思うことがある。暮らすということは、慣れ るということで、慣れるということは、見るもの聞くものに対して、ここに生きている人達と近い感覚 を少なからず持ってしまうということだ。新鮮だったものが当たり前になってくる。贅沢なことかもし れないが、時に退屈にも思えてくる。ただ、退屈になってきて初めて見えてくる感覚もあって、そうい う意味では、暮らすというのは、決して面白いばかりじゃない時間を生きる、ということでもある。

 僕が初めて家族とイギリスにやってきたということも、日常を 淡々と生きているという感じを強めているかもしれない。一人で外国にいて、食べたいふっくらとした白 いごはんも白菜漬けもラーメンも我慢して、日本語もろくに話さずにひたすら勉強ばかりしていると、な んとも辛くて淋しい。でも勿論そういう孤独感は、何かを強く感じる力を生む。想像力と創造力には孤独 感がかえって力になる。

 外国にいながら家族といると、家庭での生活は一見日本の生活と少しも変わらないように思われる。 孤独感が失われるかわりに、自分以外の、つまり妻の、二人の小さな娘の、見たり聞いたりする事や行動 に大きく影響されながら生きることになる。自分のぺースで好きなだけ自分の関心事を追求している、ひ たすら本ばかり読んでいる、というような生活から遠く放れる。病院の待合室で半日過ごしたり、セイン ズベリーというマーケットでオムツや牛乳を求めたり、電気屋の工事に付き添ったり、娘の小学校の父兄 会に出たり、写真家の妻が撮影の間子守をしていたり、公園で娘の同級生のパパやママとお喋りしたり・・・、と。 この度のイギリスでは、ただ生活しながら、一人では到底求めようともしなかったし会えなかった人達や光景 と出会っている、といえる。  

 グローブ座でのもの凄い葛藤に始まったイギリス。そこで打ちのめされて気絶していたそれからの6ヶ月、ふら ふらと立ちあっがってみたら自分のやってきたことに疑問を感じ始めてウツロになっていた3ヶ月、そして帰国 が迫ってきた今、ようやく、体の中からひたひたと湧き上がる新しい水のような悦ぶ力を感じ始めている。 ひたすらボーッとしているのが、最近になってしみじみと嬉しく感じられるようになってきた。そして、思って いる。ついさっきロンドンのヒースロー空港に降り立ったばかり、という気持ちで、これからのイギリスの60日 を生きよう!と。