木下順二訳『ヴェニスの商人』を終えて(No.9 Spring 1997)
─── なぜ、今、木下順二訳か? ───

  この夏シェイクスピア・カンパニーは『から騒ぎ』を上演いたします。それに先立
って、私たちは『ヴェニスの商人』の脚本を使って、<せりふを言う>というシェイ
クスピアを演ずる役者にとっては、最も肝腎な問題に取り組んできました。

  ユダヤ商人シャイロックがどんな人物か、ベルモンテ(美しい山)の麗人ポーシャ
の魅力はどこにあるのか、ヴェニスの商人アントニオはなぜ憂鬱なのか…その答えは
すべて戯曲のことば、つまり<せりふ>にあります。登場人物の<せりふ>を<せり
ふ>として成りたたせる <声>とはどんな調子の、どんな音量の、どんなアクセン
トの、どんな速さの、どんな質の声なのか?を、私たちは模索してきました。

  翻訳脚本として、木下順二訳を選んだわけは、木下訳がシェイクスピアの原文に最
も忠実であり、原文のもつ独特の<ヴォリュームとエネルギー>を余すところなく伝
えた名訳だからです。これまでそのせりふの美しさにもかかわらず上演脚本として使
われることのなかった木下訳の難点は、「一つのセンテンスが長すぎる」ということ
でした。坪内逍遥も福田恒存も小田島雄志もごく最近の翻訳者も、日本の役者が言い
やすいように、センテンスを短く切っています。しかし、そうすることで失われてい
るのは、<せりふのうねりとエネルギー>です。

 木下訳と四つに組むことで、日本語としてのシェイクスピアを見直してみたいと、
私たちは考えました。役者は脚本を手にして<せりふ>を<声>にするだけですが、
私たちが、次の新しいシェイクスピアのことばを切り拓いていくための一つの実験と
お考えいただいて、少し長い時間をお付き合いください。
(―立ち稽古アトリエ公演―パンフレットより)