「おみょうぬず」の下館『破無礼』に乾杯! (No.49 Winter 2007)

 

仙北市・地域文化を考える会  遠藤康

 

 開幕直後、天馬藩藩兵・成土が見張りの任務を終えた仲間に向かい、「んでは、おみょうぬず」と呼びかけるのが、この美しくも心優しい言葉を耳にする最初であった。

 次は、有名な「ことば ことば ことば」が登場する破無礼と蓬呂が出会う場面。「お晩でござりす」の蓬呂の挨拶に、破無礼が「おみょうぬず」と返し、「おみょうぬず」という蓬呂の別れの言葉に、破無礼が「おばんでござりんす」と混ぜっ返す。この「おみょうぬず」という言葉の絶妙な使い方。なんとまあ、この言葉の活き活きしていることか!

 そして、母と息子の切ない対決の場面。母親の「言葉ぬは息が、息ぬは命がこめられでござるどすたら」に続く、破無礼の「んでは、母上おみょうぬず」と立ち去り際の言葉には、正に言葉には命が込められていると悟るに十分。

 クライマックスは、狂気に陥った依璃亜が「こけしぼっこ 木ぼっこ」と母の幻想を追いながら唄い、帆礼、奥方、藩主の三人に「おみょうぬず おみょうぬず おみょうぬず」と告げ別れるシーン。それまで堪えていた涙腺が一瞬に開放される。秋田弁ではこの心情を「むどつらで、ひぇずねくて、ほでぇねぐなる」と表す。

 そして、枯れ花を持って再び現れた依璃亜が、兄礼亜に三色スミレを手渡した後、「んでは、みなさま、おみょうぬず」と語って消えるのが、「おみょうぬず」を聞く最後となる。

 「おみょうぬず」なる言葉が、舞台全体を包み込み、この「ことば ことば ことば」が通奏低音になっているように思えた。

 学生時代の四年間だけ仙台に暮らした経験のある私だが、正直言ってこの「おみょうぬず」という仙台弁は知らなかった。このたびの下館『破無礼』で初めて出会い、心を揺さ振られた言葉だ。この一つの言葉が、例えば成土、蓬呂、破無礼、依璃亜など語る人間や場によって、如何にいろいろ豊かな表情を観る者に伝えたことか!「目から鱗」じゃない「耳から耳垢」の言葉ではあった。

 実は、このたびカンパニーが『破無礼』を上演した秋田のわらび座小劇場で、私は四年前チェーホフのヴォードヴィル『プロポーズ』を仙北弁に翻案し、また三年前同じくチェーホフの『熊』を『お姫(ひぃ)さんと牛(ベゴ)』に換骨奪胎し上演した。これらヴォードヴィルを発展させたチェーホフのいわゆる四大劇の一番目『かもめ』が、なんと『ハムレット』を下敷きに書いている事を知らされた(浦雅春著『チェーホフ』岩波新書)。少し引用してみよう。

 「誰もが指摘するように、『かもめ』は、シェイクスピアの『ハムレット』を下敷きにしている。トレープレフと母親アルカージナの関係はハムレットと母ガートルードをなぞり、アルカージナの愛人トリゴーリンは先王(つまりハムレットの父)を殺害したクローディアスを模している。こうした登場人物の反復だけでなく、『ハムレット』の科白がじかに登場人物の口から語られる。観客は『ハムレット』を通して『かもめ』を観ることになる。」(163ページ)

 チェーホフははっきりと(『ハムレット』の科白で)とト書きを付け、前述の母と息子の切ない対決の場面を描き、別の場ではトレープレフに「歩きっぷりまでハムレットだ、やっぱり本を持ってね。(嘲笑口調で)『言葉、ことば、ことば』か・・・」と語らせている。

 このどちらの場面でも、前後に必ず「おみょうぬず」が語られているのは偶然ではないような気がする。それは単なる「さようなら、じゃあ、またあした」という挨拶の言葉などではなく、もっと根源的な言葉のように思える。

 『チェーホフの世界~自由と共苦~』(渡辺聡子著 人文書院)の中の「チェーホフとシモーヌ・ヴェーユ」の章で、著者は「ヴェーユにおけるコンパッシオン(共苦)が、チェーホフのサストゥラダーニェ(共苦)とふかく通じ合い、彼の作品をも照らし出してくれるように思う」と述べているが、ここら辺にヒントがありそうだ。

 ヴェーユという補助線を引くと、『破無礼』と『かもめ』に貫通し立体的に見えてくるもの、それは「おみょうぬず」という共苦の思想と言葉ではなかろうか。ヴェーユは共苦の思想を「どこかお苦しいんですか?」という問いに収斂させているのだから。

 わらび座小劇場で終演後、仙北市・地域文化を考える会が四回目の「お国言葉ルネッサンス」を催し「仙北弁vs仙台弁」のトークを展開した。席上、下館先生は次のように語ってくださった。

 「木下順二先生と深い関わりのあるわらび座には『芝居の神様』が棲み付いている。だから『芝居の神様』に守られている場は演劇がとてもやり易いし、実際とてもやり甲斐があった。場所には、その場所特有のいわば『場のスピリット』が宿っており、それによって人間は生かされ、言葉もまたそこから生まれてくる」、と。

 突然私事に戻って恐縮だが、実は秋田魁新報社から出版予定の私の拙著の仮題が、期せずして『ふるさとの地霊に耳を澄ませば』というものである。下館先生の『場のスピリット』は、私の言葉では土地の精霊『地霊』ということになる。『場のスピリット=地霊』に耳を傾けると、「おみょうぬず」という囁きが聞こえてくる。

 勿論、共苦の囁きばかりではない。仙台弁の「ほでなす、のっつお、ばかたれ」に負けず劣らずの「くされたまぐら、かすべたご、たがらもの」という仙北弁の可笑しみも、この東北の『場のスピリット=地霊』が産み落としてくれたかけがえのない宝物なのだ。

 ともあれ、下館『破無礼』に、塩釜の海の幸を肴魚に秋田の高清水で乾杯・・・。