木下順二先生のこと (No.47 Summer 2007)

 

主宰 下館 和巳

 

木下順二は、日本の近代文学史の中で、既に「戦後の代表的劇作家」としてその名を確立しています。とりわけ、1949年の初演以来、国民に親しまれてきた『夕鶴』は、木下の金字塔ともいえる傑作であることは、今更言うまでもありません。それでは、私たちカンパニーにとって、木下順二は何であったか?木下の演劇と方言に対する思想は、私たちの活動の発想の源であって、かつ根幹でした。今日は、劇団創設以来、お手紙を通して、私たちを励まし続けて下さった木下順二先生に満腔の敬意を表して、木下先生とのささやかな思い出をしるしたいと思います。

 

昨年11月30日、新聞に木下順二の訃報記事が載せられました。そして、今年の二月某日、木下順二の養女でいらっしゃる木下とみ子さんから、「養父は、二千六年十月三十日、満九十二歳二ケ月で永眠いたしました」というお手紙を頂きました。その中には、次のような遺言書の一部が引用されていました。「私の死後は、葬式をはじめお別れの会とか送る会など、一切の儀式も集まりも行わず、墓も作らず、私の母の遺灰と共に遺灰を海に流すこと。」

この遺言を読みながら私が真っ先に思い出したのは、木下が親友の森有正について書いた追悼文でした。「森有正とのつきあいは、ただ人間としての付き合いであった。哲学者や思想家や教師や宗教者や、その他の何やかやで彼がどうかは私は知らない。人間としての実在感、人間であることの楽しさ、豊かさ、面白さ、おっかなさ、そしてわけのわからなさを、三十二年と八ヶ月のあいだ、彼は私に感じ通しに感じさせてくれて、そしていなくなってしまった。私にとって彼は、底の知れないほどに優しい人間であった。これだけをいってしまえば、あとはもういうことは何もないという気がする。本当に何もないのだ。」

遺言から森有正を思いだしたのは、この追悼文の後で、1972年の三月に母を亡くしたばかりの木下順二が、「森有正と、母の遺灰をガンジス河に流す話をした」ことを書いているからです。いずれにしても、私が三十年前にたまたま読んだこの一文によって、木下順二という雲の上にいるような劇作家が、一瞬にして、身近に感じられたことを覚えています。このように人間とつきあい、このように人間を表現することができる劇作家というのはすごいものだと、演劇にあこがれていた大学三年の私は、素朴に感動しました。

木下順二の名前は、あの『夕鶴』の作者ということで、どこかで読んだり聞いたりしたことはありましたが、初めてはっきりと意識したのは、高校二年の春で、オリビア・ハッセイ主演の『ロミオとジュリエット』を見た直後でした。興奮していた私は、映画館からまっすぐに近くの書店に向かいましたが、その書店には、たまたま『ロミオとジュリエット』の在庫がなく、「こうなればシェイクスピアであれば何でもいいや」と思って手にしたのが、『ハムレット』(講談社出版)でした。その翻訳者が、ほかならぬ、木下順二だったのです。

外交官になりたいという夢を抱いて、国際基督教大学に入学してから、最も魅せられた講義は、緒方貞子先生の「国際関係論」というよりは、むしろ斉藤和明先生の「英文学入門」でした。シャーロック・ホームズしか知らなかった(その頃は、それで充分だったのですが)私は、斉藤先生の講義を通して、ホームズの活躍したヴィクトリア王朝期以前のイギリスの文学に、ドキドキしながら目をひらかされました。斉藤先生の格調高いブリティッシュイングリッシュによって、シェイクスピアの一節が音読される度に、私は、ぐんぐんシェイクスピアが気になり始めて、いつの間にか、文学の世界に身を浸していることが喜びになっていました。

斉藤和明英文学に、木下順二シェイクスピアに魅せられ始めた頃、大学のキャンパスでよく見かけたのが人文学科教授の森有正でした。『遥かなるノートル・ダム』の著者であって、滅法フランス語のできる人くらいのことしか知りませんでしたが、本館から礼拝堂に向かって芝生の上をうつむき加減に歩く姿はいつも心に残りました。その森有正が1976年の秋にパリで死んだことを教えてくれたのは、イギリス留学中の私を訪れた父と、たまたま同じ飛行機の、それも隣の席に座ったのが縁で、なぜか父と気が合ってロンドンで行動をともにした陸奥陽之助氏(陸奥宗光の孫)であったので、今も鮮明に覚えています。

 

イギリス留学から戻ると、私の頭は、ほとんどシェイクスピア一色といってもよく「批評書などは気にしないで、原典をただただ精読していなさい」という斉藤先生の助言に従って、東小金井の粗末なアパートで、寝ても覚めてもシェイクスピアという日々を送っていましたが、そういう中で、私がアイドルでも追っかけるようにしていたのが、木下順二でした。早稲田大学で講演があれば早稲田に行き、東大で話すらしいという噂があれば本郷に行き・・・という風に。木下順二をじかに見てその声を初めて聞いたのは確か、神田神保町の岩波ホールの小会議室で開かれていた「ことばの勉強会」に参加した時で、中野好夫、木下順二、山本安英、宇野重吉といった天然記念物みたいな人たちが、何気なく並んでいるテーブルの前に座って、夢でも見るような心持でいました。その時、木下順二は、私の第一印象は、『橋のない川』の著者で既に90歳をゆうに越していたはずの住井すえが、十歳ほど年下の木下順二に持っていたものと変わらぬものなので、お二人の対談の一部から敢えて引用してみることにします。

「実は私、数十年前に、ある会合で先生にお目にかかっているんです。先生はご記憶ないですか。そうでしょうね、私、先生の後ろ姿ばかり見ておりましたから()。今日、この会場に先生が歩いて入っていらっしゃった、その後ろ姿もダンディですけれども、当時はもっとダンディでね。えらいハイカラな男がいるわねと思ったら、それが木下先生でした()

木下順二の風貌も声も厳粛な二枚目のイメージが強いのですが、東大YMCA会館でともに六年間を過ごした森有正との次のやりとりを読むときに、木下の中にある茶目っ気と優しさを感じることができます。

「夜中の三時ごろ私の部屋にはいって来た森有正は、きみ、ついに成功したよ、いいかい、え?いいかい、といいながら、両方の黒眼をほとんど黒眼が見えなくなるまで寄せて見せて、ここまで眼が寄るというのはありえないことだと自慢した。それへ私は耳を動かして応酬した、というようなことを、ほとんど毎日やりあっていたような気がする」

 

カンパニー創設の頃、私は木下順二の膨大な著書に没頭して、木下のシェイクスピアに対する考え方、方言に対する考え方を学んでいました。それは、木下の思想の中にこそ、私たちの劇団の未来があると考えていたからです。最初に、お手紙を差し上げたのは、『ロミオとジュリエット』初演の前でしたが、「テレヴィで見ました。熱心な姿に感心しました」というお葉書をいだいて、飛び上がるほど感激したものです。それから、木下順二論を上梓する度に、拙論を送らせていただきました。私は、そのお声もお顔もよく知っているのですが、直接お話させていただいたことはありません。しかし、『恐山のマクベス』東京公演の直前のある夜突然、木下先生からファックスで、毎日新聞に掲載された私たちの大きな記事が送られてきて、その記事の傍らに、少し震えた文字で「君の劇団のことが東京で話題になっています。播部蘇か、いいね。がんばってください」とあって、なんだか嬉しくて泣きそうになったのを覚えています。木下論を書いている間、幾度もお会いしたいと思いましたが、悶々としていると必ず夢に現れて、二人で本当に細かい議論をしたものです。これは嘘のような本当の話で、朝、目覚めると、晴子に「今朝は夢の中で木下先生と一緒に歩きながらいろんな話をしたよ」と子供みたいに喜んで話し、大学でも学生には講義そっちのけで夢の話をするという風でしたが、家に帰ると晴子が「お手紙が来ているわよ。誰からだと思う?・・・和ちゃんの恋人よ、木下先生」と。

 

憧れを、私は木下順二に抱いてきました。そして、先生がもうこの世にはいない。ほんとうに寂しく思います。一度でもお会いしてお話したかった・・・。しかし、私は、悲しみよりも、木下順二に巡りあえた幸福に、憧れ続けられた幸福に感謝したいと思っています。いずれかならず、『木下順二とシェイクスピア』の本を先生の霊に捧げられるように学び続けたいと、先生の提唱された芸術語としての方言の可能性を探るために、これからもシェイクスピアを創り続けたいと思っています。