熟成に向かっての第一歩  (No.42 Spring 2006)

主宰 下館和巳

 私は、いつもは、仙台公演の初日が終わると、もう次の作品のことを考えています。しかしこの『破無礼』の時だけは違いました。ここまでも大変長かったのですが、これからも長いからです。お客さんの反応にとりわけ敏感になって、公演ごとに脚本に手を加えよう、演出を変えよう、役者たちとせりふと声と演技について話し合いを重ねていこうと思っていました。
 嬉しいことに、前売り券は開幕二週間前に完売し、わずかな当日券のために行列ができるほどの盛況ぶりでしたが、170人そこそこで満員御礼になってしまう、それも背もたれもクッションもない小さな劇場ではなくて、見たい人が必ず見れる、それも皆楽チンで見れる劇場で上演してほしい、という声も既に私の耳に届いていました。いつかそうしたいと思いながら、椅子の座り心地は別として仙台の街のど真ん中の200人足らずの劇場というのは、私たちのような劇団にはぴったりなのです。何より、役者がお客さんととてもいい塩梅にコミニュケーションがとれるからです。それでも、やはりこれからは窮屈さの解消のことも考えなければなりません。
 この脚本が、私の妻の死をベースにして書かれていると感じた人が非常に多いことに驚きながら、それも無理もないと、人ごとのように思います。しかし、実は、この『破無礼』は戊辰戦争の記述以外は、原作に非常に忠実であって、せりふはことごとくシェイクスピア以外のなにものでもありません。そして何より、この脚本が仕上がったのは、二年前の、晴子の病気が発覚する、ちょうど三日前のことで、それから殆ど脚本には手が加えられていないのです。書かれたことが起きている、いや起きようとしている、という恐怖感から、稽古が嫌で仕様がない時期があったほどです。今回ほど、シェイクスピアの言葉の真実を思い知らされたことはありません。
 この度の作品の特徴は、古語になりかかっている方言も取り入れた濃い仙台弁によってせりふが貫かれていることと、ハムレットが認知度の低い戊辰戦争と合体されていることです。ですから、言葉も歴史もわかりにくいという苦言を耳にしました。と同時に、仙台弁が快感で、戊辰戦争とハムレットの融合が自然であるという言葉も聞きます。しかし、課題は見えたような気がします。
 観客反応へのアンテナは高くしたいと思っています。そして、いろいろな意見を言っていただけるような、言わずにはおれなくなるような芝居にしたいとも思っています。そして、最後には細かい難点を越えて、「ともかくよかった、感動した」という『破無礼』にするために、精進を重ねていきたいと強く思っています。そういう意味で言えば、この仙台公演は熟成したハムレットへ向かうべく最初の貴重な第一歩といえると思います。