方言とシェイクスピア(No.4 Winter 1995)

作家 丸山修身

 9月9日(土)、仙台で東北弁による「ロミオとジュリエット」を観た。(翻訳・脚
本・演出 下館和巳)この上演を知ったのは8月22日、NHKテレビ夜7時から8時の
ニュース番組においてであった。演劇のさかんな仙台で、「シェイクスピア・カンパニ
ー」というユニークな劇団が旗揚げしたという。日本ではシェイクスピア劇は共通語
(標準語)をもって演じられてきたが、一部、八戸や秋田などいくつかの東北方言を取
り入れて上演するということだ。そもそもシェイクスピアの言語では、役柄や階級によ
って方言や下町なまりが使われ、人物が生き生きと描き分けられているという。人類の
宝ともいえる古典として崇められているが、自分にはさっぱり面白く感じられないシェ
イクスピア劇が、どんな印象に生まれ変わるか?方言の可能性やいかに?これはなによ
りもまず舞台を観なければ、という訳で、東京から仙台に赴いた。上演会場となったエ
ルパーク仙台スタジオホールは、立ち見客もでる超満員であった。

 まず前口上から東北弁が登場した。
「ふたりが出会ったどぎがら、死ぬってきまってだようなもんだがら、しかだね。死
んで、始めで、ふたっつの家が、ながよぐなんだがら。んでも、やりきれねな。」
次いで舞台は、モンタギュー(ロミオ側)、キャピュレット(ジュリエット側)、両
家の者の喧嘩から始まった。

エイブラハム なんだ、んがよ!
サムソン    みでわがんねんだ、ぃんがよ!
(略)
エイブラハム おめ喧嘩するどってが?
サムソン    売るっつぅんだば買うんだおんいぇ。
        負げねぇはんでな!
(略)
エイブラハム なにー。むったど負げるくせに。
サムソン    おぅー。ふんだば一発ぶちかまさー。

 しかしこの後喧嘩の仲裁、叱責に登場する大公は、共通語を話す。このように、東
北弁と共通語が降りあわさって舞台が進行する。役によって話す言葉が固定している
訳ではない。一人の人物でも共通語と方言を使い分けてあるが、感情が高ぶり激した
時は、おおぬね方言に転換する。が、例えばジュリエットの乳母のように、終始方言
を話す役もある。

 僕は舞台を観ながら、観客の反応を観察していた。いや、それ以上に自分の内に起
こる反応に注目していた。多くの場合、外国の古典劇を鑑賞する場合、舞台に引き込
まれるまでのしばらくの時間、ヒリヒリするような恥ずかしさが自分を襲うからであ
る。平素の日常とまったく違う風体をした者たちが登場し、人工的な発声で、身近な
日本の現実と離れた、リアリティーのない言葉を発する。
 
 恥ずかしさがどこからくるのか自分でも不可解だったが、今回解った気がした。人
間には想像力というものが備わっていて、この力で対象を理解可能なものとしてから
め取ろうとする。対象がどんな変わったものであれ、無理なく想像力が届くものには
美を感じるし、限界を超して想像力の触手がどうしても届かないものには醜を感じ、
この中間の想像力が届くか届かないかという中途半端な違和の状態が、恥ずかしいと
いう感覚となって反応を起こすらしい。

 今回の舞台にはこの恥ずかしさをまったく覚えなかった。たぶん冒頭部の方言の効
果だったのだろう。言葉が現実から浮き上がらず、人物とともにリアルに生きている
と感じた。長野県生まれの僕にはよく理解できない方言のせりふもあったが、この劇
の筋立ては知っているので、気にならない。その点は良く考えて方言が配分されてい
る。

 実は観る前に、僕は演劇における方言というものに、警戒心を抱いていた。という
のは、全編方言で書かれた日本の創作戯曲をおもしろいと感じたことは一度もないの
だ。上演された舞台を観ていて不快になるばかりだ。観客がほとんど理解できない、
お経のような言葉をだらだらつらねて、何がうれしいのだろうと思う。作者の一人よ
がりの泥臭さ、鈍感を感じ、次第に腹が立ってくるのである。

 生の方言はリアルという点で強く深いが、理解がせまく限定される。上手に扱わな
いと、劇薬のように危険だ。

 東北弁まじりの「ロミオとジュリエット」を観ながら、僕はふっと木下順二の「夕
鶴」を思い浮かべ、方言と共通語双方の演劇における効果特性を考えた。いうまでも
なく「夕鶴」は鶴の恩返しの民話を素材にしたもので、そうであれば方言であっても
一向に構わなかった。ところが使用されたのは人工的な共通語というべきものであっ
た。戯曲という性質上、方言を思わせるくだけた表現は使われているが、慎重に、日
本人であれば誰もが理解できる言葉で書かれている。なぜだろう。それは作者が普遍
的抽象的なものを狙っているからだ。

つう  与ひょう、あたしの大事な与ひょう、あんたはどうしたの?あんたはだんだ
   ん変わって行く。……あの、あたしには言葉も分からない人たち、いつかあたしを
 矢で射たような、あの恐ろしい人たちとおんなじになって行ってしまう。どうしたの?
  あんたは。どうすればいいの?あたしは。……あんたはあたしの命を助けてくれた。
  なんのむくいも望まないで、ただあたしをかわいそうに思って矢を抜いてくれた、…
   …あの布を織ってあげたら、あんたは子供のように喜んでくれた。だからあたしは、
  苦しいのを我慢して何枚も何枚も織ってあげたのよ。それをあんたは、そのたびに
 「おかね」っていうものと取りかえて来たのね。……その好きな「おかね」が手には
 いったのだから、あとはあんたと二人きりで、この小さなうちの中で、静かに楽しく
 暮らしたいのよ。あんたはほかの人とは違う人。あたしの世界の人。だからこの広い
 野原のまん中で、そっと二人だけの世界を作って、子供たちと遊んだり、畠を耕した
 りしながらいつまでも生きて行くつもりだったのに……

 金銭と愛。これは古くて新しい永遠の問題である。そして素朴な無私の美しさ。この
背後にはおそらく作者の信仰、キリスト教がある。つまり原罪である。もしこの箇所が
純粋方言で語られたとしたらどうだろう。ずいぶん変テコな、木に竹を接ぐ式の、濁っ
た印象になる筈だ。観ていてこれも恥ずかしいだろう。確かにこのテーマは方言よりも
共通語のほうが適している。

 当日の「ロミオとジュリエット」に話を戻すが、全体として共通語と方言の比率は二
対一か、三対一程度だったように思う。適度に取り混ぜられているため、共通語から方
言への転換が無理な不自然のものとは感じられない。

 例えば、殺人を犯してロミオがヴェローナを立ち去らなければならなくなった際の、
有名なジュリエットとの夜の逢引きと別れの場面は次のように語られる。

ジュリエット もういぐの?まだ暗いげど
ロミオ      俺だっていきてぐねぇよ。ずっと、こお
         していたいっちゃ。でも、もう朝だべわ。
ジュリエット 月の明かりだよ。んだがら、まだい
       がなくていいがら。
ロミオ      んだな、まだいい。ジュリエット?
(略)
ロミオ     あれは月だ。朝日じゃない。暗いもの。こうやって、ふたりでいれれば、
             死んだってこわぐねえよ。死んだってどぉっつごどねぇよ。
             ジュリエット 朝だよ。ロミオ。あれは月でねくて朝日。んだよ。ほんと
             なんだがら。朝だよ!ロミオ!急いで行って、はやぐ、はやぐ!

 風土と生活の臭いが漂い、若者の激しい恋が身近に感じられる。この他の方言の箇
所で、何度か地元の観客から大きな笑い声が上がっていた。シェイクスピア劇では稀
有なことである。もともとのシェイクスピア劇はこういうものであったに違いなく、
うまくはまった方言の力というものを考えた。僕には言葉が理解できず、ポカンとす
るばかりの場面もあったが、観客が深く楽しんでいる風なのを見るのは、気持ちのい
いものである。たまたま同じ日に観た作家の奥泉光氏と、この後酒席で話す機会があ
ったが、奥泉氏は東北弁がもう少し多くても良かったと思う、と感想を述べていた。
このさじ加減は微妙である。奥泉氏は山形県の生まれで、僕などよりはるかによく東
北弁を解する筈だから、当然こういう意見も出るのだろう。観る人の出身地により、
また演じられる地域によっても、この比率は微妙に変わっていく筈で、そこがおもし
ろく又難しいところだろう。

 シェイクスピアはなんといっても言葉の演劇だ。単語の多義性を利用した言葉あそ
び、連想のおもしろさ、は共通語による翻訳ではほとんど伝わらない。が言葉そのも
のの面白さという点に関しては、方言の採用によって多少とも表現しえていたように
思う。会場に笑いがあったのがその証拠だ。

 国も時代背景もまったく異なった、シェイクスピアというごった煮のような巨大な
言語のるつぼを、どうやって現代日本に引きつけ、新たに息を吹き込むか。試みは舞
台装置などだけでなく、肝腎の言葉によっても様々なされてよい。その意味では今回
の公演は一つの可能性を示したと思う。このような大胆な試みがなぜ今までなされて
こなかったのか、不思議なくらいだ。そんな感想を抱いた仙台の一夜であった。