ハムレットから破無礼へ  (No.33 Spring 2004)

主宰 下館和巳

 『十二夜』公演を終えた翌年の1999年1月27日の夜、私は、新宿西口の思い出横丁で、丸山修身さんと久しぶりに飲んでいた。ビールをさしつさされつ飲みながら、私は唐突に「丸山さん『マクベス』の脚本一緒にやっていただけませんか?」と言い出した、ような気がする。
 丸山さんと最初にお会いしたのは、確か1980年で、東小金井駅前のサラリーマン大学という焼き鳥屋だった。私は大学院に入りたてだったが、岩波映画の助監督を辞して小説を書いていた丸山さんと意気投合し、ふたり読書会をしましょう、ということになったのだ。それから、丸3年、古今東西の古典をふたりで読み漁った。仕上げは決まって冷えたビールと冷奴で、へべれけになるまで語り合いつつ飲んだ。不思議に澄んだ楽しい時間であった。
 新宿の夜から数ヶ月後のある日、私たちは宮城の鬼首温泉で『マクベス』を日本の古代東北に移植する仕事に没頭していた。だから、あのふたり読書会の最初の果実が『恐山の播部蘇』である。そして、信頼できる才能豊かな友人との創造の悦びは、『温泉旅館のお気に召すまま』へと続いていった。
 以前から『ハムレット』は手ごわい、と思っていた。読めば読むほど、見れば見るほど不安が増した。まず長い、そしていたるところに疑問と曖昧の湖がある。この演劇界最高峰の登頂にあたって、私は更に二人の才能の力を借りよう、と思った。
 一人は、私たちがシングを上演した時に、『海へ騎りゆく者たち』を翻訳し、カンパニーのエディトリアル・マネージャーの要職を担っている鹿又正義氏、もう一人は、NTT社員でありつつプロデューサーとしても活躍する菅原博英氏だ。
 私は、この四人が温泉宿の一室で、火鉢を囲むようにして『ハムレット』を語り合うのを想像しながら、ひそかに黒澤明や小津安二郎の脚本の仕事を思っていた。
 2002年会津若松での合宿に始まった共同構想は、私がイギリス留学中もパソコンを通じて(このことでは菱田信彦氏に深く感謝しなければならない)続けられ、2003年の秋に帰国して間もなく、それぞれに温めあってきたアイディアを話しあった。長い白熱した議論の末、いつのまにか『奥州幕末の破無礼』の鼓動が聞こえ始めていた。
 これはあたりまえだという風な姿勢を、私たちは極力排除した。要するに皆自由に語り合った。まずは、原作を徹底的に読み込んで、そこから一人一人に沸きあがってきた思いを大切にする。それから初めて、『ハムレット』に関する批評、数々の舞台、16世紀英国の、12世紀デンマークの政治状況を論じ、丁寧に日本の、東北の幕末に原作の魂を移し替えていった。
 東京に暮らす丸山氏の小説家としての眼、戊辰戦争に造詣を持つ菅原氏の眼、英文学研究者としての鹿又氏の眼、一年余りイギリスに暮らしていた私の眼――、四人の眼は、『ハムレット』に宿る分裂と揺れ、人生の心理の解釈を巡って激しく衝突しながら、西洋に向かって開かざるをえなかった日本という国の中で、逡巡しつつ行動しきれなかった東北の懊悩に向かって、徐々に収斂していった。
 シェイクスピアの『ハムレット』は、今、奥州幕末の『破無礼』(はむれ)として誕生間近である。


付記
 幕末というのは、なぜか魅力がある。しかし、幕末の東北人の存在感は、まるでロウゼンクランツとギルテンスターンの如しである。会津藩こそが戊辰戦争の震源地であるにもかかわらずだ。あの時代の東北に人物がいなかった、と勝海舟が岩倉具視が言っていたというのをどこかで読んで、わたしは憤慨した。そして幕末の東北を調べ始めるうちに、行動できなかった、逡巡していた東北の姿が浮かび上がってくる。日本史の教科書には決して登場しない東北の熱気溢れる若者達を『ハムレット』で輝かせてみたい!そういう思いが私たちの『破無礼』にある。