ことばの行方-シェイクスピア・カンパニーの10年 (No.26 Spring 2002)

詩人・精神科医  大平常元

 ケム川が巡り、通りぬけるケンブリッジ大学のコリッジ群を、手を入れると、思いの
外に冷たく、力強い川の流れを手のひらに感じ、学生が竿をさし、押し出す船の上から
眺めながら、涙橋をくぐりぬけたあたりで、下館さんから『ロメオとジュリエット』の
演出の構想を聞いてもう何年になるのか。
 いささかぎこちない雰囲気の中で、大海の一滴を思わせる水道からしたたり落ちる、
あのしずくの音の幕開きのシンボルと、太陽の輝きに似た『ロメオとジュリエット』の
黄色いイメージが、下館さんの中で、その頃少し煮詰まりかけ始めていたようにも思え
た。
 あるいはいささか大きすぎる1パイントのビールとチップスをもてあましながら、 そ
の川岸のホテルのバーで、シェイクスピア・カンパニーの構想を聞いたのもその頃であ
る、と思うのだ。
 現実はドラマ以上に劇的である故にドラマ嫌いである、という陳腐なアンチ・ドラマ
論に凝り固まっている小生にあきれ果て、哀れんだ下館さんはロンドンでの二週間の演
劇セミナーに連れ出し、あるいは劇場の天井桟敷から奈落までを連れ回し、ロンドンの
劇場の急な階段を駆け上がらせ、駆け降ろさせながら、あるいはケンブリッジの学生の
前衛劇を見せてくれながら(あれはあまり面白くなかったがね)、彼は身を持って演劇な
るものを哀れなる小生に教えようとしてくれたのである。そして、結果は、学習効果は
どうだったか。いや、そんなことはどうでもいい。
 福島で『ロメオとジュリエット』に始まり、塩釜の小島での『真夏の夜の夢』、岩出
山での『十二夜』、藤沢町での『恋の空騒ぎ』、恐山、小坂、スコットランドでの『マ
クベス』、鳴子での『お気に召すまま』、そして盛岡、多賀城、東京での公演などなど。
7年の間に見せてくれた。場所、公演が変わるたびごとの演出の力量にも恐れ入るばかり
でした。
 ただ言葉の問題は厄介だね。東北のこころをどんなことばにのせるのかそれが問題さ。
「文化的優位性と言葉の優位性は異なります。経済の優位性や権力の優位性と言葉の優位
性は平行しているに違いありません。文化と文化が出会った時劣位の経済圏と権力圏の
言葉のもつヒエラルキーの上部の構造はきれいにもぎとられ言葉の下部の構造だけがの
こされ優位の経済圏や権力圏に隷属します。言葉の担い手がなくなるからです。カリカ
ルチャライズされる所以です。江戸詰めの仙台藩の家老は一日中正座し、立派な仙台弁
を使っていたものさ。明治維新で追い上げられ、立派な仙台弁は使わなくなったのさ。
東北のこころが屈折したうらみがましさに始まらざるをえないのも問題です。お国違い
の武士たちは謡曲にのせて話し合ったともいうがね。」などなど。
 さて、ことばにのせる東北弁のこころとは何か。
 それこそが、ほんとうの問題なのだが、しかし、人間の生き死にについて、天国と地
獄について、いや極楽と地獄について、東北が発言しないわけにはゆかないでしょう。
そして東北の言葉の行方を、いや言葉そのものの行方を考えなければなりません。それ
を考えるのには2年間の休暇はむしろ少なすぎる位です。
 デンマークの小さい港町での私たちのハムレット公演でまたお逢いしましょう。