古典の力  (No.26 Spring 2002)

アドヴァイザー 松田公江

 旗揚げから7年がたちました。この年月を通して思うのは、家族や親類、友人とそして見も知らなかった多くのみなさまがたと、東北の地で、シェイクスピアの楽しさを一緒に体験してきたなぁ、ということです。
 シェイクスピアは古典であるために、一般的には少々身構えてしまうものですが、私は、人の人生に「言葉」の力を与えた神様のようだと感じています。人生でおこるたくさんの悲しみやつらさが言葉によって癒されることがありますし、逆に言葉によって深い傷を負うことの方が日常には多いかもしれません。あるときは人生そのものまで左右してしまう言葉さえあるでしょう。言葉ってすごいなと感じたのは、わたしたちがいくつかの作品を上演してゆく過程でのことでした。
 これまでは、初期の作品である喜劇を中心に上演してきました。知名度は低いけれども笑ってもらえる、笑いがあるので劇団員の表現の未熟さがカバーできる、なによりシェイクスピア当時と同じ道順をたどり類似した経験を積むことで劇団員とともに成長してゆきたい、という主宰の思いからでした。
 喜劇である以上観客には、第一に笑ってもらわなければなりません。そのために主宰下館氏は、舞台設定を親しみやすいところへ移しかえ、おもしろいセリフをちりばめ、じ~んとくる演出も織りまぜて、まずは観客と舞台がつながることを考えられました。それらのしかけがうまくいけばよしと思っていたその時、驚くことに、しかけでない場面でも観客の反応があったのです。それはこしらえたセリフではなく、シェイクスピアそのままの言葉でした。ストーリーの流れがたしかに伝わり、笑いのうねりがかえってきたことは、本当のところ思いがけない出来事でしたから、大変びっくりして、シェイクスピアの神様が降りてきた、と下館氏と舞台袖で顔を見合わせたものでした。そうやって劇場で笑ってもらい、元気が出た、勇気がわいた、ちょっぴり泣いた、シェイクスピアっておもしろいというご感想をみなさまから得たからこそ、わたしたちはシェイクスピアを上演する喜びとともに、古典の強さを実感することができました。
 古典の良さは、他の古典芸能にも同じく感じとることができます。私が初めて狂言を観たのは、平泉の中尊寺の薪能で演じられたものでしたが、それはそれはおもしろく、心の内側のほうから笑いがわきおこるような新鮮な体験でした。今、私は、日本の古典芸能が身近な京都に住んでおりますため、狂言や能を楽しむ機会に恵まれています。お正月には、京都の烏丸今出川にある河村能舞台で子どもを対象にした狂言の催しがあり、畳の桟敷に座布団で座って、体を揺らしながら大きな声で笑う子供たちと一緒に初笑いをしました。京都暮らしで古きよきものへの愛着が濃くなっているこのごろです。そうしたときに、この古きよきものを自らが再創造するには何が大切なんだろうと考えさせられます。狂言師の野村萬斎さんが「古典芸能の良さは、自分たちだけの力で勝負しているのではないという点にもあり、何百年もかけて人間というフィルターでろ過されたエッセンスが型。それを身につけることで、自分たちの能力以上の可能性が生まれる」と新聞て云っていました。型こそないけれど、シェイクスピア劇でも同じように、人々に愛されて400年、その長い上演の歴史から抽出されたエッセンスはあるはずで、それを感じて演じてゆくこともやはり大切なのだろうと思いあたります。
 ただ古典を再創造するということは並大抵でないのはいうまでもないことで、難解極まる古い時代の英語のテキストをいのちあふれるわたしたちの言葉へとダイレクトに翻訳する作業の困難さはさることながら、作者の全体像に通じた再創造こそが理想的な結果をもたらすといわれる古典において、下館氏がその研究でシェイクスピアの本質を受けとめて、けれども知的な解釈による硬さを感じさせずに、本来もっていたいきいきとしたエネルギーをよみがえらせていること、これがカンパニーの最大の魅力なのでしょう。
 そしてまた、芝居というものは、創って見せればいいという一方向のことだけではなく、観客の気持ちがうちよせる波となって、さらに劇場全体が一体となって体験してゆくところにこそ、大きな楽しみがあります。一体となるというのは本当に大変なことで、観客と、役者と、照明、音楽、舞台装置や受付等々のスタッフ、マネージャー、劇場の方、ポスター制作の方、応援団の方々と、そして演出との一体、・・・・・それぞれどうしの一体、数限りない心の組み合わさりが必要になります。こうして、たくさんのひとの心が組み合わさってはじめて、一つの芝居ができあがります。
 これからわたしたちは休養をとりますが、2年後の再会のときには、シェイクスピアに向かうまっすぐな気持ちと、7年前のような新鮮な心を忘れずにもって、みなさまにお会いしたいと思います。そうして、芝居のあとにいただくたくさんの拍手のその意味が、い~はなすだったなやぁ~、と語られるようなものにかわってゆければと願っています。