ストラトフォード日記(No.12 Winter 1998)
  
主宰 下館和巳

 私は、イギリスのストラトフォードで開催される国際セミナーに参加するために、生
まれて80日足らずの娘と女房を残して「一体なんでこんな時期に開いてくれるんだ」と
文句を言いつつ、元旦の夜、仙台から成田に向かった。この記録は、私が大学入学と同
時に記し始めた、自慢の大切な「備忘録」(23冊目になる)に基づいている。

 1/1(木)「行きたくないよね」と弱音を吐くと、女房に「すごいじゃないの。元
旦から新しい夢に向かって仕事初めでしょ」と励まされて「すごいんだ」と自分に言い
聞かせる。その夜、成田のホテルのバーでマンハッタンをなめながら、ぼんやりしてい
ると、若いバーテンダーが「お仕事ですか?」と聞いてくる。少しためらって「そうで
す」と答えると、「その割りには明るいですね」という反応。なんだ嬉しそうな顔して
るんだ、と思うと妙に元気になる。

 1/2(金)一年ぶりのヒースロー空港。なんとなく心がうきうきする。地下鉄でパ
ディントン駅に向かう途中、目の前に鴻上尚史が座っていることに気づく。岩波新書の
『日本人の英語』を懸命に読んでいる。一瞬声をかけようかと思ったが、なぜか「ミタ
ニコウキ」という名前しか浮かばず、違うよ誰だっけなぁ、なんて独り言を言っている
うちに、久しぶりのイギリスの風景に目を奪われて、目の前の鴻上さんに関心を失う。
パディントン発ストラトフォード行きの列車は日に6本しかない。それもストラトフォ
ードは、終着駅だから、この町は全く陸の孤島なんだなと改めて思う。目的地に着くと
タクシーで、アーデンホテルに直行する。シェリーパーティが終わっていて、レセプシ
ョン・ディナーが今まさに始まろうというところに、到着。グッドタイミングだ。着替
えもろくにせず、ディナーテーブルに向かうが、女性の数の多さに圧倒される。16名の
参加者の内男性は、ウィーンのヨアヒム氏とカルカッタのミッテラン氏と私のたった3
人で、早速仲良しになる。

 1/3(土)いよいよセミナーが始まる。ロイアル・シェイクスピア・カンパニー
(以降RSC)のヴォイス・コーチのアンドリュー・ウェイド氏(36、7歳かな)と
は5年ぶりの再会。シシリー・ベリー(75歳位かな)とは2年ぶりの再会。彼女につ
いては、少し説明がいるかもしれない。日本では知る人ぞ知るといった〈声の神様〉で、
1969年からRSCのヴォイス・ディレクターとして数々のイギリスの名優を育て上
げてきた人である。「私のこと覚えていらっしゃいますか?」と言うと、太陽みたいに
微笑んで「もちろんよ」。セミナーのメンバーは、アメリカ3人、ニュージーランド、
オーストラリア、イスラエルからそれぞれ2人、スペイン、アイルランド、インド、オ
ーストリア、オランダ、南アフリカ、日本からそれぞれ1人づつである。インドネシア
の演出家が欠席で皆残念がる。日本ではまだ確立していない職業であるヴォイス・コー
チがほとんどだが、その大半は大学の演劇学科の教授を兼ねている。演出家は男性だけ
である。会議のテーマは“Theatre Voice; Thought or Emotion”。今日はイントロダ
クションと、テーマにどんな風にアプローチするかという話し合い。シシリー曰く「声
は人間の魂の音」(!)夜、エイドリアン・ノーブル演出の『ベニスの商人』を見る。
ポーシャが男っぽ過ぎるが、シャイロックはうまい。眠くて眠くて困った。時差ボケと
ワインのせいだ!

 1/4(日)ホテルはRSCのスワン劇場の目の前で大変便利である。朝から熱が出
てずっとベッドの中にいる。今日は基本的にフリーの日だからよかった。しかし、天気
は最悪で嵐である。なぜか食欲だけはある。午後からまたベッドに入り集中的に眠る。
生卵をスコッチに割ってごくんと飲んで眠る。汗がでるでる。根性で快復するしかない。
夜、年末に仙台でみたキャメロンの『タイタニック』のことを思い出しながら、『タイ
タニック』という古いテレビ映画をもうろうとしつつ見る。イギリス人の批評を「タイ
ムアウト」(ちゃんとした批評の載った日本のピアみたいな雑誌)で読むと「豪華絢爛
だが陳腐」となかなか辛い。でも私はとても感動した。

 1/5(月)目覚めると風邪が去った、という自覚がある。嬉しい。朝食のテーブル
に爽やかに登場すると、「カズミは生卵で風邪を治した」ということでなぜか話題にな
る。一日中、シシリーのワークショップで「子音と母音の出し方とその働き」を学ぶ。
テクストはシェイクスピアのせりふで、即興的理解を求められる。言葉の醸し出す感覚
について、実に微妙な議論が延々と続く。英語を母国語としている者とそうでない者に
明らかなギャップを感じさせられる。オーストリア、イスラエル、スペイン、日本は苦
戦を強いられる。これを毎日続けていたら発狂するんじゃなかろうか、という不安に駆
られる。ここでちょっとRSCについて基本的なことを説明しよう。その歴史は187
9年から始まったが、この劇団は現在世界で最も多くのシェイクスピアを上演し、非常
に理想的な環境で舞台づくりをしている、質量共に世界一のシェイクスピア劇団だ、と
言っていい。ストラトフォードに限っていえば、三つの劇場がある。一番大きなシェイ
クスピア劇場、馬蹄形のスワン劇場(これがなかなかいい)、そして小さなジ・アザー
・プレイス。今はそれぞれの劇場で二本づつ芝居がかかっているが、役者は契約期間中
この町に住んで、最低二つの芝居をこなしている。ちなみにポーシャ役の女優のヘレン
・シュレシンガーは『十二夜』のヴァイオラも演じている。主役をほぼ同時にやってい
るから凄い。そんなRSCのすべての上演記録が収められているシェイクスピア・セン
ターで、暇を見つけては『十二夜』の資料を読み漁る。まずは1969年からの6本に
焦点をあてる。夜、ジェイムズ・マクドナルド演出の『ロバート・ズッコー』を見る。
不思議な芝居だ。部屋の中で一人ジンを飲みながら今年の上演作品『十二夜』の構想を
練る。

 1/6(火)朝食のテーブルでイスラエルの女優イズと一緒になる。夫を亡くしたば
かりの彼女が「前を見なければだめね」と言って微笑んだ顔が美しかった。この日の私
は彼女を大部応援する発言をした。人は感情で生きている、とつくづく思う。ロンドン
のギルドホールで方言指導をしているチャーミアン女史のワークショップは一言一句、
一挙手一投足、すべて頭と心に染み込んだ。今日は、ほとんど日本代表(俺か?)の独
走。疲れていることを忘れさせられる時間とはこのことをいう。スワン劇場でボヤ騒ぎ
があり上演開始が遅れたが、マイケル・アッテンボロー演出の『ロミオとジュリエット』
を見る。ヴェローナをシシリーに、貴族を農民に変えているのが新しい。黒いロミオと
白いジュリエットだが、ジュリエットが大胆にセクシーである。演出はデカプリオのも
のを意識してか、敢えてオーソドックスに仕立てている。夜、ジンを飲みながら『十二
夜』の試訳。

 1/7(水)声のセラピスト、カーディング博士の講演を聞く。声はパーソナリティ
そのものなんだね。『ハムレット』『十二夜』『ソネット』を中心にこれでもかこれで
もかと、様々な方法(これは説明不可能)でテクストを読む。ダブリンのミリアム嬢は
いつも情熱的だ。シシリーの仕事は、単なる発声法のコーチではなく、俳優と戯曲の登
場人物の声の出逢いの導き手といったらよいかもしれぬ。シシリー曰く「声に良い悪い
はなし」この日は夜の10時までシシリーの特訓が続く。シシリーは疲れを知らない。
驚異!夜、眠れずに『十二夜』の上演記録を読みながら想像をめぐらす。アイリッシュ
・ウィスキーの芳醇な味とパイプの紫煙の向こうに冒頭シーンのイメージが浮かぶ。こ
れでいける!

 1/8(木)今日は私の発表の日だ。早起きをして原稿の確認。アンドリューとリン
の下で呼吸法を学ぶ。基本を何時間も繰り返すことの大切さを感じる。午後新進の劇作
家リチャード・ネルソンの『グッドナイト・チィルドレン』を見る。圧倒的なリアリズ
ムに息を飲む。こりゃあスゴイ!私は「木下順二のシェイクスピア」を紹介し、わが劇
団のシェイクスピア演出法を論じる。反響が大きく、質問攻めとなる。嬉しい夜になる。
『十二夜』試訳を声に出して読んでみる。

 1/9(金)シェイクスピア研究所でチャーミアンと方言と標準語についての議論。
イギリスでは近頃益々方言の力が大きくなっていることを痛感。彼らは言葉の標準化を
嫌っている。その多様性こそがシェイクスピアを支えうると信じている。シシリー曰く
「想像だけじゃだめ。ともかくやってみなきゃ」。あたりまえの言葉が心にずしんとく
る。スワン劇場でRSCの俳優達と稽古。彼等の即興の動きは野生の動物のようだ。夕
方、イギリスを代表する演出家エイドリアン・ノーブルに会う。若くてフランクである。
私は二つの質問をする。まず「外国のシェイクスピアはあなたにとってどんな意味があ
るのか?」そして「あなたにとってコンテンポラリー・シェイクスピアとは何か?」最
初の問いには興味深い答えを得たが、次の問いには目をくるくるさせて当惑を見せた。
そんな彼にシシリーが助け船を出したのが印象的だった。夜は晩餐会。『十二夜』試訳。

 1/10(土)RSCの稽古場で、俳優達とワークショップ。彼等の声をすぐ側で聞
いていると体がシビレル。私が「シェイクスピアみたいにすぐれた戯曲じゃない時はど
うしたらいいんですか?」と言うと「どんなテクストであろうと信頼することよ」とい
うシシリーの答え。私にはなぜか「どんな役者でも信頼することよ」と聞こえる。『十
二夜』を見た後に、ダーティ・ダックというRSC役者の溜まり場のパブで役者達と飲
む。ちぎれるように寒いが心は熱い夜。「言葉のマスキュラリティ」これがRSCから
いただいたシェイクスピア演出への鍵だ。

 1/11(日)シェイクスピアの眠るトリニティ・チャーチを訪れて、これまでの公
演への御礼を述べて、今年の『十二夜』の大成功を祈願する。その午後、一人一人と熱
い別れの抱擁をかわし、再会を約束してロンドンへと向かう。ストラトフォードでのイ
ンスピレーションに溢れた豊饒な時間に深く感謝する。