海のごときもの(No.1 Spring 1995)

詩人・精神科医  大平常元
 
世界は多様に開かれている。
シェイクスピアもまた。
シェイクスピアを研究するというなかれ、
シェイクスピアは研究するものではなく、楽しむものさ、と言ったのは確かロンドンっ
子だったね。
シェイクスピアを楽しみたいという仲間の集まりが シェイクスピア・カンパニーさ。
シェイクスピアをネタに飲み、かつ談じ、そしてまた、そのついでに、演じてしまお
うという訳である。しかも東北弁混じりで。
おおいに結構、と言いたいね。おおいに楽しみたいね。沈思黙考も勿論必要である。し
かしアクティング・アウトも必要さ。
青森のねぶたのように飛びかつ跳ねるのも必要である。

 下館さんからシェイクスピア劇場を仙台に建てたいんだが、と聞いた時にはびっくり
したね。そしてまた彼のなみなみならぬ、常ならざる気概を感じたね。It's OK!! さ。
小生は、なぜ塩釜ではいけないのか、とだけ尋ねただけですがね。
小生としては、ローカリティと海に対する関心からでしたが。ローカリティということ
であれば、登米でも白河でも可であろう。七ヶ浜でも、石巻でも、気仙沼でも勿論可で
あろう。
            
 しかしシェイクスピアと水や海の関係は切り離し難いものがありますね。そして、海
はとりわけ開かれてある。

 思想は開かれてありたいね。海のように。そう思っています。

 シェイクスピア・カンパニーは開かれている。小生の如きアンタイ・トラマチストが
カンパニーに入っていること自体が、その証明である。
現実があまりに劇的である故に反劇的であろうとする立場もお認め頂けると思っている。
とはいえ開演のベルを前に、反劇的人間の胸がたかまるのは、何故か。