下館和巳
第十幕
「塩竈の声、祖母の声」

プロフィール

1955年、塩竃市生まれ。

国際基督教大学・大学院

卒業。英国留学を経て東

北学院大学教養学部教

授。比較演劇選考。シェ

イクスピア・カンパニー

主宰


私は塩竃で生まれたが、同じ塩竃でも、両親の出身地や仕事によって、一つ一つの
家庭の言葉は微妙に違っていたと思う。私の父は八戸生まれで、母は塩竃生まれだ
が、海産物屋を営んでいた私の実家には、年がら年中、青森、岩手、秋田などから
来た住み込みの若い男女がいて、今思えばひとつの家の中にいろんな東北弁が渦巻
いていた。       
 しかし、家を一歩出れば、町にも小学校にも生粋の塩竃弁が溢れていた。友だち
は「先生(しぇんしぇ)にゴシャガレッつぉわ」という風に喋り、駄菓子屋には決
まって「モーシ」と声を上げながら入っていった。原っぱで友だちが鼻をたらしっ
ぱなしで六モンスに夢中になっていて、テソズラズイがぎはおっかないお兄ちゃん
から「ナガシッとわ、これ」と怒鳴られて泣いていた。近所のお姉ちゃんもおばち
ゃんも「なんだべー、オショスイごだまず」などと言って大声で笑っていたし、家
には野菜売りのおばちゃんが「菜っ葉買わい-ん」と背なが中にデッケナ籠をショ
ツてやってきた。朝は「ホヤー、ホヤー」とホヤ売りの声がして、夕暮れ時には
「トーフー」と豆腐売りがラッパを鳴らして歩いていた。ああ・・・懐かしい-!                             
 私の耳は基本的に塩竃弁と父方の南部弁に親近感がある。しかし、最近脚本を書
きながら、耳の奥にいつも響いている声があるということに気づいた。その声は、
母の母、つまり祖母の声だ。
 祖母と一緒に住んでいたわけではないが、私の家のある藤倉から歩いて15分ほど
のところにある北浜に母の実家があったので、小学生の私は何かといえばよく遊び
に行った。祖母は病気がちだったので外出することは滅多になく、私が行くとちゃ
ぶ台の前にいつもチョコンと座っていた。歴史好きの祖母は、「水戸黄門」や「銭
形平次」といった時代劇が大好きだったが、一緒にテレビを見ながらよくコミコミ
と解説をつけてくれて、そのおまけに「平家物語」や「勧進帳」の件を楽しそうに
話してくれたもんだ。 その話の語尾は「ござりすと」「ござりすてござりす」
「がいん」という風で、この祖母の話す塩竃弁の書はまことに柔らかく上品だった。                        
 そのせいだろうか、私にとって塩竃弁は民話や昔話というより、むしろ時代劇や
古典とつながっているような気がする。そして、近頃よく思う、祖母の塩竃弁をも
っともっといっぱい耳に入れておくんだったなぁって。                      
                                    (つづく)

朝日ウィル 1999年10月26日号より