London Diary

Vol. 3

23 September 2023

Umi Shimodate


『宙に浮いたカフェラテ』

 

 やさしい記憶は、時間とともに淡く溶けていくのに暗い記憶は輪郭をはっきりとさせたまま存在し続けるのはなぜだろう。

 

 昨年11月のある朝の日、霧がかかったロンドンみたいな天気の気分で目覚めた。でも学校を休むわけにはいかない。私の頭に7時間押し潰された枕よりもよれっとした気持ちで朝8時半に学生寮の入り口で待ち合わせをしてた友達に空元気でおはようと言い、東京の朝と同じくらいの満員電車に自分の体を押し込んだ。

 

 学校に着き、いつものように講義を受ける、その日のディスカッションのトピックは「盗難」だった。先生がやたらと深刻な顔でこの国の盗難の被害について話していた。

 

 この国に限った話ではないが、海外では、財布、スマホ、バッグ、スーツケース、自転車、車、買い物袋……など高価なものは一瞬でも気を抜くと魔法にでもかけられたかのように自分の手元から消える。顔も知らない誰かに盗まれるくらいなら魔法をかけて消してもらった方がもはや嬉しいくらいだ。

 

 前に、友人がブランドもののコートを購入した日、他のお店で靴を試着してる際に横に置いていた紙袋をまるごと盗まれていたことを思い出した。「私の注意不足だったから…」と苦笑いをしていた友人の顔は今思い出しても切なくなる。

 

 高校時代に渡英していた冬、雨宿りをするために入ったロンドンのカフェで、どうしても席を確保したかった私は貴重品を抜いた自分のリュックをテーブルに置いて紅茶を注文をするために、その場から離れた。紅茶を頼み終わり、店員さんがレシートを発行している最中にふと確保したテーブルに目を向けると、私のテーブルを囲むように人だかりがだきていた。そろりそろりと近づくと、なにやら私のリュックがあまりにも無防備に置かれているために盗まれてしまうのではないかとそこにいた人たちが心配してくれていたようだった。

 

 「気をつけなきゃだめよ?」とマダムに一言、言われた。

 

 日本では、混んでいる店内で座席を確保する際に自分のカバンなどを置いて注文しにいく光景はよく目にする。そのため、机に置かれているリュックを誰かが盗むかもしれないと思うことは、少ない。でも、この国はそうではない。とにかく、盗まれる。そして完全自己責任。高校生ながらも、海外にいるといつも危険と隣り合わせということを忘れていた自分の行動に少し情けなくなった記憶がある。

 

 学校が終わり、一度寮に帰宅するもなんとなく心の霧が晴れないままの私は部屋の中で課題をする気にもなれず、お気に入りの場所でもあるLondon Bridgeの近くにあるカフェでレポートをするために再び外に出た。

 

 お店の隅の壁側の席。壁側にスマホ置き、通路側に一口目で既に飲む気を無くすほどの味の薄いカフェラテを置き、気分を少しでも上げるためにワイヤレスイヤホンでお気に入りの曲を聴きながらパソコンとにらめっこしていた。

 

 それは、レポートも軌道に乗っていたときだった。突然、右側の私の味の薄いカフェラテが宙に浮いたのが視界に入ってきた。私はハッとして顔をあげる。すると、水色のニット帽を被った小柄なおばさんが私のカフェラテを左右に振っている。

 

 ロンドンでは街を歩いているとホームレスの人たちがいわゆる物乞いをしてくることはよくあることであり、それにもある程度慣れていたので”Sorry”と一言だけ伝えた。

 

 そうすれば諦めて離れていくだろう、過剰に反応するのもよくないと判断し、再びパソコンの画面に視線を戻した。すると、その直後、そのおばさんは私の注意を引かせるかのように、一枚の段ボールを強引に私のパソコンの画面の前に差し出し視界を遮ってきた。流石に動揺を隠せず、恐怖を感じたため私は強めの抵抗を示した。そんな私を見ると、諦めるかのようにのそのそと背を向けて店から出て行った。

 

 私は唐突な出来事に少し放心し一点を見つめたままでいると、耳につけていたワイヤレスイヤホンが突然、音を鳴らすのをやめた。イヤホンから鳴る「トゥルルン」という音はスマホとイヤホンの距離が離れたことにより接続が切れたか、電源が切れた時にしかならない。いや、私のスマホの充電は十分にあったはずだよな、と思い左下に目線を落とすと私のスマホが消えていた。瞬時に「盗まれた」いう言葉が私の頭を殴りつける。

 

 頭は真っ白になり、店内でさっきまで楽しく鳴り響いていたはずのジャズも血の気が引いていくとともに脳内で不協和音へと変換される。

 

 私は咄嗟にパソコンとリュックを両脇に抱き抱え猛ダッシュで店内を出た。そのおばさんが歩いて行った方角へと走り出すと、奇跡的にワイヤレスイヤホンが再び繋がった。まだ近くにいることだけはわかった。しかし、夜だった。暗くて誰が誰なのか見分けがつかない。困惑しながら彷徨っているうちにまたイヤホンは音を鳴らすのをやめた。

 

 「盗難」のディスカッションをしたその夜に、自分が盗難に合うと誰が思うだろうか?これはコントなのか?わざわざ外に出なければ盗まれなかったのでは…?「こいつのスマホなら盗めるぞ」と思わせるほどその時の私のオーラは弱々しかったのか?と帰りの電車に揺られながら自問自答する自分の姿はあまりにも可哀想だった。と今も自分で自分に言いたくなる。

 

 次の日の朝、シェアキッチンに行くとサウジアラビア人の姉妹が朝食の準備をしていた。私が昨夜の話をすると「Umiの気持ちを考えたら心が痛いわ…」と私のために朝食を振舞ってくれた。人のやさしさというものはあたたかい。

 

 わたしは普段塗らないジャムがのった食パンを頬張りながらあの時「気をつけなきゃだめよ?」と声をかけてくれたマダムの顔を思い出していた。