飢饉(ききん)・台風に思う

更新日:2016年9月4日

作家 丸山修身

 

 先日八月三十日、台風10号が東北三陸を直撃した。岩手県大船渡市付近に上陸、津軽半島から日本海に抜けていった。昭和二十六年の統計開始以来、東の太平洋側から東北に上陸することは初めてという。
 東北はこれから米、リンゴなど収穫の季節である。被害が少ないといいな、と願って僕もじっとテレビで台風情報を見守っていた。水田が泥水につかり、その中にイネがびっしりと倒れている光景ほど、僕にとって無惨に感じられるものはない。元々農家の息子であるから、今でも米の出来が気にかかるのである。

 

 東北は日本の代表的米作地帯、いわば日本の米蔵(こめぐら)といってもいい。この東北、その長い歴史は、いわば飢饉との闘いの歴史であった。
 飢饉の怖さが分からなければ、宮沢賢治の文学は理解できない。僕はそう思う。例えば詩では『雨ニモマケズ』。「サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はおろおろ歩き)の詩句は、いかに岩手県花巻地方で冷害による凶作が怖れられていたかを示している。
 童話では『グスコーブドリの伝記』をあげればいいだろう。自らの身を犠牲にして火山を噴火させ、冷害を防ぐ話である。
 また青森県八戸市出身の作家・三浦哲郎は小説『おろおろ草紙』ですさまじい飢饉の場面を描いている。江戸天明年間、飢餓の果て、家族を殺して食ったり、墓を掘り起こして死体を食べたりしたという。
 また女が人肉に脳味噌を混ぜて塩辛にして食べたことも書かれている。脳味噌はとれたてのウニのような味で、新しいものは生ですすり込み、余ったものは人肉の塩辛に混ぜたというのだ。そんな塩辛が、女の家から四斗(四十升)入りの樽で二つも見つかり、探索の役人は度肝を抜かれたという。

 

 僕の郷里の近く、新潟県との県境に近い奥深い山中に、『秋山郷』という僻地の村がある。「秘境」として有名だから、みなさんも名前はお聞きになったことがあるのでないか。ここは江戸時代、繰り返された飢饉で三つの集落が滅びている。
 僕は昔秋山郷を訪ねた際、真っ先に滅びた集落跡を見にいった。草の中にひっそりとたつ小さな墓石は、いかにも命のはかなさを感じさせたものだ。秋山郷に程近い僕達の村でも、当然餓死者がでたはずである。
 東北では、太宰治も石川啄木も棟方志功も、その背後には飢饉の影がある。岩手県では、戦後も朝鮮戦争(1950~1953)の頃まで、米ではなく、粟、稗(ひえ)などの雑穀が主食だった地方がある、と何かで読んだことがある。長い歴史の中で、餓えの恐怖を覚えなくてすむようになったのは、ごく最近のことなのだ。

 

 凶作といえば僕にも直接の体験がある。それは昭和二十八年のこと、この年は冷害によるひどい不作で、米がまったく実らない田んぼがあった。刈り取った稲を畦(あぜ)に積み上げ、火を放って焼いた。秋の青空にもうもうと立ちのぼった、あの煙。親はなんと切なく、虚しかったことだろう。当時はもう麦も買うことができたから餓えるということはなかったが、我が家や集落を覆っていた重く暗い空気は、小学校にあがる前の子供でもはっきりと感受できた。だから今でも、「豊作」というニュースや記事に接すると、それだけで気持ちがぱっと明るく浮き立つのである。
 僕の父親はよく「米という字は、八十八と書くのだ」と言っていたものである。確かに「八十八」を縦につづめると「米」という字になる。つまり種籾(たねもみ)から苗を経て米になるには、それだけ大変な手がかかっているのだということを教えた訳である。その労苦を想うと、自然、子供も絶対にご飯を粗末にしてならないと思うようになる。
 今でも僕は食べ物を粗末に扱う人間は好きになれない。長年親しくつきあってきた友人をみると、みな、好き嫌いなくよく食べ、陽気によく飲む人ばかりである。

 

 考えてみれば、僕が子供の頃、両親からしつけとして教えられたことは二つしかない。その一つは「マンマっ粒を粗末にすると目がつぶれる」というものだった。ご飯を無駄にすると目が見えなくなる、というのだ。これはまさに長年にわたる飢饉に対する恐怖からきている。
 もう一つは「ウソをつくとエンマ様に舌を引っこ抜かれる」ということだった。これはみなさんも聞いたことがあるのではないか。食べ物を大事にすること。ウソをつかないこと。この二つは農村の暮らしの根底を貫く根本倫理であった。
 今振り返っても、つくづくこれはいい教えであったと思っている。この二つを守っていれば、そう大きく人の道を踏み外すことがないからだ。
 山形県庄内地方出身の作家藤沢周平にも、同じ倫理観が流れているのを感じる。藤沢作品は武士の世界を題材にとっているが、中心を貫いているのは東北農民の倫理観である。おそらくここに藤沢周平の人気の秘密がある。藤沢は鶴岡の在の農家の出であった。

 

 考えてみれば、米作りは長いこと日本人の暮らし、文化の根幹であった。昭和二十五年(1950)には全就業者数の約45パーセントが農業であった。つまり働いている人の半分近くが百姓をやっていた訳だ。それが飢饉、凶作となればいかに大きな社会不安が醸成されるか、みなさんも想像がつくだろう。歴史を学ぶ、とはこういうことをいう。

 

 古来、米は特別に神聖なものとして見なされてきた。みなさんも、今でも天皇が長靴をはいて田植えをするテレビ映像をみたことがないだろうか。これは毎年放映されるはずである。そして、秋の十一月二十三日には宮中で新嘗祭(にいなめさい)が行われる。今はこの日は勤労感謝の日として祝日になっているが、もともとは皇室の新嘗祭だったのだ。これは最も重要な宮中祭祀で、天皇がその年獲れた米を神に供え、自ら食べるのである。これは米作が天皇制の根底にあったことを証し立てている。
 ちなみに皇后は蚕に桑を与える「給桑(きゅうそう)」という儀式を執り行う。これも毎年テレビで流れる。米作と養蚕。まさにかつての日本の二本柱であった。
 網野善彦(あみのよしひこ)のように米以外の歴史を研究した学者もいたが、やはり根本は米文化である。

 

 僕の家でも、初めて新米を炊いて食べる日は特別な意味をもっていた。先ず仏壇の先祖に供え、ていねいにお経を上げるのである。それから全員そろって味わう。僕はその時の親のほっとしたうれしそうな表情をよく憶えている。とにかくこれで餓えなくてすむ、という気持ちが滲み出るのである。それは子供としても、とてもうれしいものであった。東北の農家でも、このような家族風景はどの家でも見られたはずである。
 よく実った秋の田んぼの風景は美しい。「黄金(こがね)色」とはよくいったものだと思う。じっと眺めているだけで、僕は幸福である。