ベニスの商人・我が演劇史

 

更新日:2014年7月23日

作家 丸山修身

 

 シェイクスピア・カンパニーの次回公演は『ベニスの商人』である。ベニスの商人、と聞くと、特別な思いが内にこみ上げてくる。なぜかと言えば、田舎の中学一年の学芸会でこの劇を上演し、僕はユダヤ人の金貸し、シャイロックを演じたからだ。
  学芸会は毎年、卒業式が近い冬にあったが、ほぼ全ての村衆が雪の中をやってきた。毎回セリフが覚えられるかどうか不安だったが、舞台を終えた後の満ち足り た歓びも大きかった。人の間近、しかも顔見知りばかりの前で演じることは恥ずかしかった。が、この恥ずかしさこそが快感に結びつくことを僕は知った。とに かく、自分の体をつかって人の心を動かすということは大変なことだ。
 今回は、そんな僕のささやかな演劇史である。全部はとても書ききれないので、ほんの初期だけにとどめる。
    
    高校では三年の時、劇団「民藝」が『夜明け前』をもって長野市にやってきて、市民会館で学年全員が鑑賞した。原作はもちろん島崎藤村の長編小説である。主役の青山半蔵(藤村の父親をモデルにしている)を演じたのは、名優・滝沢修であった。
    感動した。本当に舞台に引き込まれて観た初めての体験であった。狂った半蔵が、ふきの葉っぱを頭にのせてさまよう場面は、今もくっきりと眼に焼きついている。
    仲の良かった山田和男という男が、この後、自分は俳優になると言い出した。そして一人で演技の稽古もやり始めた。しかし一人でやっているのは物足りない らしく、しょっちゅう僕の下宿にやってくるようになった。そして、「泣くより笑う方が難しい」などと言いながら、演じて見せるのであった。
    
    さて次は大学時代である。僕が入学してクラス分けされたO組というのは、フランス語を第一外国語(第二は英語)として選択した者のクラスで、ほとんどが 仏文科志望であった。二年に進む時にフランス語の試験が行われ、専攻が決まるのである。仏文科の倍率は、二倍をちょっと下回るぐらいであった。
    大学生になって一ヶ月足らずで、そのO組で劇団が結成された。中心になったのは加藤広志という男で、劇団名を「葦(あし)」といった。同じクラスに著名 なシャンソン評論家であった芦原英了(あしはらえいりょう)氏のお嬢さんがおり、その一字を、漢字を変えて拝借したのであった。
    僕はクラス委員をつとめていたので、自ずとこの劇団に半分ぐらい属することとなった。リーダーの加藤広志だけが演劇の経験が少しあるようだったが、他はほとんど、ずぶの素人である。
    そんな中、上演演目はフランス古典劇の名作モリエールの『女房学校』(辰野隆、鈴木力衛訳)と決まった。僕はその場にいなかったのでどういう理由でこの 作に決定したのか知らないが、これは難物だぞ、と思った。五幕もので、長い。だいいち、この作、読んでも僕には面白いとさっぱり感じられなかった。
    それでもみな意気軒昂であった。大劇団なにするものぞ、日本の演劇界に旋風を巻き起こすのだ、などと青臭い気炎をはいていた。仏文志望であるから、サル トルとか、カミュ、ベケット、ジロドゥ、アヌイ、などフランス現代演劇に詳しいような顔をしていたが、実際はみな、ほとんど無知であった。
    
    僕には役はなく、外からつかず離れずで足を突っ込んでいる状態であったから、メンバーから、
「丸山は飲む時になると、どこからともなく現れる」
と 言われていたそうである。全員未成年であったが、そんなことにお構いなく、渋谷・井の頭線ガード脇の安飲み屋で大酒を飲んではゲロを吐き、女に抱きついた り抱きつかれたりしていた。青春の痴愚である。それが楽しかったのだ。僕は美人の女子学生の母親から、「うちの娘はまだ子供ですから」と電話で怒られたこ とがある。だがその実、とても「子供」でなんぞなかった。

    ある日、「劇団四季」の看板俳優、日下武史(くさかたけし)が指導にやってきた。浅利慶太とともに、慶応仏文の先輩だったのだ。加藤広志が個人的に日下武史を知っていて、その関係で来てもらったらしい。教室で、一時間ほど話を聞いた。 
    日下武史は演技とか演出に関わる踏み込んだ話はまったくしなかった。ただ、『女房学校』はやめた方がいい、ということを婉曲に忠告した。―五幕ものはたいへんだ。短くて比較的上演が容易な作、たとえば木下順二の『彦市ばなし』などはどうか、とはっきり言った。
 僕はすぐに、日下武史の言うことは正しい、と思った。しかし配役も決まり、台本も刷って、すでに船は滑り出していた。
    日下武史が帰る時、加藤がお金の包みを差し出したのには驚いた。加藤一人の自腹である。他の者はそんなことを考えもしなかった。しかし日下武史は断固として受け取らなかった。
    またこの後、日下武史の紹介で、日比谷の日生(にっせい)劇場に「劇団四季」の稽古を見学に行ったことがある。福田恆存演出で『マクベス』をやっていた。
    
    思い返すと、日下武史もバカな後輩にほとほと呆れたのではないか。無知というのはおそろしい。いずれ日生劇場を借り切って上演しよう、などとエスカレートすることもあったのだから、白痴的としか言いようがない。
    それにしてもフランスの古典劇はつまらない。四年時の授業で、フランス古典劇の名作といわれるラシーヌの『アンドロマック』を原文で読んだが、さっぱり面白くなかった。それに比べると、シェイクスピアは断然おもしろい。その理由は、ごった煮のような猥雑さにある。
    結局、日下武史の忠言は正しくて、「葦」は夏休み明け早々、自然消滅というかたちでつぶれた。
    
    この体験を通して知った教訓が一つ。それは一つの劇を企画し、実際に上演するには厖大なエネルギーが必要だということである。ふわついた気持ちではとても完成などおぼつかない。
    とにかく一つの劇を上演するということは大変なことだ。ましてや不特定多数を相手に、金をとって演じるとなれば、気が遠くなるような厖大なエネルギーが 注がれなくてはならない。それがはっきり分かるので、僕はどんな舞台もまず畏敬の念をもって観ることにしている。出来不出来はその後のことである。役者に ついても、先ず真剣に演じる姿に心を打たれる。その情熱が、結局は感動となって観客の胸に響くのである。

    さて、次の『ベニスの商人』はどんな舞台になるだろう。実際にシャイロックを演じた者として、僕にはわくわくする腹案があるのだが、それは後のお楽しみということに。