富岡製糸場を訪ねて

 

更新日:2014年6月25日

作家 丸山修身

 

  先日6月21日、群馬県富岡製糸場が世界遺産に決まった。その二日前、6月19日、僕は富岡製糸場の見学に行った。決定後は猛烈に混むであろうことを予測 して、そうなる前に出掛けたのである。それでも相当混雑していた。そのほとんどがバスでやって来たらしい団体客であった。
    案内の人に訊ねると、昨日は2700人以上が訪れた、今日はそれより多く来ているのではないか、ということだった。しかし5000人以上が押し寄せた日もあり、入場制限をかけたそうだ。今は更に、ラッシュ時の駅のような大混雑だろう。

    高崎駅からローカル色たっぷりの上信電鉄に乗り、上州富岡駅で降りて15分ほど歩くと、正面に堂々たる二階建ての赤煉瓦の建物が見えてくる。製糸場の繭 倉庫だった建物である。その入口天井の石に「明治五年」とくっきりと彫られている。ここは当時、世界最大規模の製糸工場であったという。
    当時の様子について、工女だった和田英は『富岡日記』で次のように書いている。
    
        一行は付き添いの大人達と一緒に富岡製糸場の正門へと向かいました。その時の驚きは、本当に

      夢でも見ているのではないかと思われたぐらいです。生まれてからこのかた、煉瓦(れんが)造

      りの建物など、ごく稀に、それも錦絵で見ただけでした。それを今、目の前で現実に見ているの

      ですから、これは無理もないでしょう。
       (『富岡日記』現代口語訳 和田英著 信濃教育界出版部刊)

 和田英が、50歳頃になって素晴らしい記憶力で生き生きと描き出した文章である。
    見学して先ず印象に残るのは、船出したばかりの明治政府が製糸にかけた懸命な思いである。堂々たる赤煉瓦の建物の中でも特に僕の眼をひいたのは、富岡製 糸場を指導したフランス人、ポール・ブリュナの居館の立派さであった。大きく豪華で、ちょっとしたホテルのようだ。金のなかった明治政府が、桁違いの高給 をもって、必死に欧米の先進技術を摂取しようとした様がうかがわれるのである。
    
    僕は富岡製糸場を見学して回っていて、養蚕(ようさん)に関わる様々なことを思い出した。僕の家でも、小学校2,3年頃まで、蚕(かいこ)を飼ってい た。蚕は桑の葉を食べて育つ。たくさんの蚕が頭を打ち振るように動かして、パリパリ、パリパリ、と桑の葉を食べ進む音が今もはっきりと耳に残っている。学 校でも飼っていて、繭になるまでを飼育日記をつけて観察した。
 また村の駐在の巡査(警察官)を「カイコ巡査」というあだ名で呼んでいたものだ。顔が蒼白く、のぺーっとしていて、ひ弱な感じがまさに蚕の顔にぴったりであった。それだけ蚕が身近であった証拠だ。
 
    ここで働いた工女は、旧武士階級の娘が多かった。和田(旧姓横田)英も信州松代藩の旧士族の出身であった。悲惨な「女工哀史」の話が出てくるのはまだ先 のことで、案内解説の人の話によると、当時腕のいい製糸工女は一般の男の三倍もの給料を稼いだものだという。今の言葉でいえば女エリートだったのだ。彼女 たちはその後郷里に帰って、地方製糸業の指導者となった。和田英も故郷松代に帰り、地元の民間製糸会社「六工社」で指導に当たった。

    ちなみに和田英の弟は、戦前の大審院長、現在でいえば最高裁長官となった横田秀雄である。その息子、横田正俊も戦後、第四代最高裁長官をつとめた。もう一人の実弟は、戦前鉄道大臣をつとめた小松謙次郞であるから、よほど出来のよかった家系なのだろう。
    姉弟が生まれ育った家は、重要文化財として今も茅葺き屋根で松代に残っており、僕は一昨年夏、田舎に帰った折に見学にいった。母屋は寛政六年 (1794)の建築という。しかし説明板に、和田英や横田秀雄の生家であることは全く記されていなかったのはどうしたことか。宮城県でいえば、吉野作造の 生家が何の説明もなく展示されているようなものである。
    僕は暇をもてあましている様子の受付の女性に、是非、和田英たちの生家だということを書いた方がいいですよ、それで見学に来る人もいるはずです、この僕がそうですから、と意見して帰ったのであった。
    松代は真田幸村の一族、真田氏の城下町で、千曲川が流れ、武田信玄と上杉謙信が戦った川中島古戦場のすぐ近くである。大女優・松井須磨子を生んだ地であ り、また先の大戦末期、大本営移転が企てられ、朝鮮人をつかって突貫工事で地下壕が掘られたことで知られる。その他にも見るべきところが多いので、僕は 時々ふらっと訪れるのだ。
    
 製糸はやがて日本の輸出産業の中心となり、生糸(きいと)を売って軍艦を買った、とさえ言われたぐらいであった。国家を支えただけではない、蚕を飼い繭(まゆ)をとって売ること、つまり養蚕(ようさん)は各地の農家をも支えたのである。
 ここでちょっと説明を加えると、繭は蚕が吐く一本の糸が丸まったものである。これを湯でほぐし、数本の糸をより合わせたものが生糸である。さらにこれにアルカリ性の薬品を加えて処理を施したものが絹糸となる。
 
 話はとぶが、みなさんは神社やお寺で、石仏にまじって猫の石像が祀(まつ)られているのを見たことがないだろうか。僕は山登りをよくするので、ふもとの小さなお宮やお寺で時々これを見た。そして実に不思議だった。意味が分からなかったのだ。
 これが、蚕を飼う人達によって祀られたということを知った時、どんなに驚いたことだろう。猫と蚕の関係。これにはネズミが関わる。ネズミは蚕を食べてし まうのだという。中の蛹(さなぎ)をねらって繭をかじることもあるに違いない。つまり養蚕にとってネズミは憎たらしい大敵なのだ。そのネズミをとってくれ るということで、養蚕農家にとって猫は神社に祀るほどありがたい存在なのだという。このことは、養蚕がいかに重要な収入源であったかということを、裏から 証し立てている。

 山登りにいくと、最近多くの廃村を見る。ものすごい山奥に、わずかな軒数の家の残骸が残っている集落があると、僕は先ず、ここの人達は何をして食べてい たのだろうと考える。すると僕の目に、必ずといって飛び込んでくるものがある。近くに育った桑の木である。放棄されて大きく育ち、すっかり野生となって葉 を繁らせている。これではっきりと分かるのだ。蚕を飼うことが生活を支えていたのだということが。
    米だけでは食べていけない山の農家が先ず考えたのが、蚕であった。桑の葉が得られさえすれば、どこでも飼うことが出来るからだ。
    そんなあまたの家々が、ある意味では日本の近代の発展を支えたのである。