気仙沼ニッティング

更新日:2014年2月20日

作家 丸山修身

 

 先日2月11日、NHKのラジオ深夜便に、『気仙沼ニッティング』代表取締役・御手洗瑞子(たまこ)さんが、「被災者の心を一つに編む」というキャッチコピーで登場した。昨年6月、宮城県北部の海沿いの街に、手編みの株式会社を立ち上げた28歳の女性である。
    大津波によって甚大な被害をうけた気仙沼に、地元の女性を編み手として、高級セーター、カーディガンを産する会社を立ち上げ、震災復興に益することを超えて、長期の視野で世界を目指す、ということだった。編み物といえば気仙沼、と周知されるようになりたいという。ブランド、という言葉は手垢がついて感じられるので、僕は使いたくない。むしろ、本物の高級品、とでも呼んだらいいか。毛糸も特別にあつらえたものを使用するという。
    漁業の街気仙沼は、もともと編み物がさかんな土地であったようだ。僕はずっと以前に、男の漁師が手編みが上手なことをテレビで見て驚いた記憶がある。遠洋漁業に出た場合、アフリカ辺りの漁場に到着するまですることがなく、編み物をして時間をつぶすのだが、ごつい指を器用に使い、実に見事な出来栄えなのだ。だから気仙沼で高級編み物と聞いても、特別驚くこともなかった。
    
    実は『気仙沼ニッティング』については、僕はfacebookやホームページで既に知っていた。というのは、御手洗瑞子さんの母親、照子さんとは大学の同級生だったからである。(慶應義塾大学文学部仏文科)今は照子さんともつきあいが全くなく、瑞子さんが照子さんのお嬢さんとたまたまネットで知った時は本当に驚き、若く爽やかに輝いていた学生時代の照子さんをくっきりと思い出した。
    
 御手洗瑞子さんを著書の経歴欄より簡単に紹介する。
    1985年、東京生まれ。東京大学経済学部卒業。経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニーを経て、2010年より一年間、ブータン政府のコミッションに初代首相フェローとして勤める。主に、ブータン観光産業の育成に従事、とある。高校はおそらく母親の照子さんも卒業した田園調布雙葉高校である。
    二、三年前、ブータンブームといった社会現象があったことを、みなさんも憶えておられるだろう。そのブームを大いに支えた一人が瑞子さんである。
    ブータンはヒマラヤ山中に位置し、面積は日本の四国程度の小国だが、国の豊かさを計る尺度として、経済優先のGDPではなく、「GNH」(GROSS NATIONAL  HAPPINESS 国民総幸福指数)を採用していることでその国名を世界に知られた。また若い国王夫妻が来日され、福島の被災地で犠牲者に向かって合掌されている場面もさかんにテレビに流れた。ご記憶の人も多いことだろう。
 瑞子さんは二年程前、『ブータン、これでいいのだ』という著書を新潮社より刊行してずいぶん評判になった。ブータンで一年間単身生活を送り、その体験を基に書かれた本である。周りに聳える雪をかぶったヒマラヤの峰々、抜けるような青い空、澄み渡った大気、純朴な人情。僕は山が大好きなので、読んでいて羨ましい限りであった。しかしブータンが直面する困難な問題にも鋭く触れている。何よりも生身で飛び込んでいく行動力が素晴らしい。
    
    その御手洗瑞子さんが、一転して、この度、シェイクスピア・カンパニーが拠点を構える宮城の地で会社を立ち上げたということに、僕は素朴に感動した。それがこの文を書こうと思い立った理由である。東京でも大阪でも横浜でも神戸でもない。三陸の港町、あの気仙沼なのだ。
    気仙沼というと、3月11日の夜、一面猛火に包まれるテレビ映像が僕の脳裡から消えない。真っ黒な闇の中にすさまじく燃えさかる火炎は、すべてを焼き尽くす地獄の炎かと思われた。後で知ったことだが、壊れた石油タンクから海に流れ出した油が燃え上がって、あのような地獄模様になったのだという。
    それまで一般的にいうと、気仙沼はどんなイメージで受け止められていたのだろう。僕の場合、小学校、中学校の地理で習った、東北有数の漁業の街、というものだった。また、大学時代、森進一が歌ってヒットした『港町ブルース』(1969年 深津武志作詞 なかにし礼補詞 猪俣公章作曲)という歌があった。
    
               流す涙で割る酒は
               だました男の味がする
               あなたの影をひきずりながら
               港 宮古 釜石 気仙沼
    
    おそらく年輩の多くの人は「ケセンヌマ」というと真っ先にこの歌を思い出すのではないだろうか。つまりどこか哀しい影をひきずった漁港のイメージである。
    しかし僕はいつからか、ずいぶん進取の気性に富み、独自の文化をもつ土地だなあ、と感じるようになった。そのきっかけが、「ケセン語」であった。
    気仙沼在住の医師が、気仙沼地方の方言を言語学者のように研究しているというテレビ番組を見て驚いた。ふるさとの言葉を地道に研究している人がいるということにびっくりし、心を打たれたのであった。
    ケセン語について詳しいことは知らないが、古代の蝦夷(えぞ)に連なる言語であるらしい。東北の先祖につながる言葉といっていいか。ケセン語で新約聖書の翻訳までされているというから、圧倒されるではないか。
    
    また、「森は海の恋人」という唸(うな)るばかりの素晴らしい標語が発せられたのは気仙沼の地からであった。良い漁業には良い森が必須だ、という意味である。沿岸の養殖漁業にとっては、川から良い水が湾内に注ぐ必要がある。そのためには上流の森の環境が保たれていなければならない。そこで漁業者も一緒になって上流に木を植える活動をしているという。まさに子供の環境教育にぴったりだと思う。
    北海道でニシンがとれなくなったのは、内陸で木材を大量伐採したことが一因だといわれている。おそらくそうだろう。山が荒れ、川から泥水が大量に海に流れ出し、何よりも大切なニシンの産卵場を失わせたのである。
    
    船にたとえるなら、この『気仙沼ニッティング』号、今はまだ気仙沼湾に留まっている状態だろう。志だけではやっていけない。安定して編み手を確保するためには、一定の利益もあげていかなくてはならない。まず足元をしっかり固めることが肝要だろう。
    が、いずれ間もなく、この小さな船は大海原に乗り出していく。順風満帆な日ばかりではない。絶望にかられるような大嵐もきっとある。しかし舵取りが明るい気持ちでしっかりしていれば、前途は洋々だろう。
    気仙沼から世界へ。どうかすくすくと羽ばたいていってほしいと願わずにはいられない。気仙沼、および東北のためだけではない。人間に希望を与えるためである。