猪瀬直樹・一年先輩

更新日:2013年12月25日

作家 丸山修身

 

 この12月24日、東京都の猪瀬直樹知事が辞職した。猪瀬氏は僕の高校―長野県立長野高校、の一年先輩であった。
 今回書くのは政治家としての猪瀬直樹ではない。従って、疑惑となっている徳洲会や東京電力の問題には触れない。それらはこれからもマスコミが大々的に取り上げるだろう。
  僕はこれから、ずっと以前の、初々しい、政治権力なんぞ意識することもなかった、いわば生の猪瀬直樹をみなさんに紹介しようと思う。ただ、僕は猪瀬直樹の 姿形を記憶に留めていない。しかし「イノセ」という名前が上級生の間でたびたび飛び交っていたのは、はっきりと憶えている。一学年上では、かなり積極的に 行動して目立つ存在だったのだろう。
    
 長野高校では毎年卒業式間近になると、生徒会が『金鵄(きんし)』という冊子を刊行して全 員に配布する。一年間の学校行事、文化部の活動状況、運動部の成績、などを記録に留めるものだが、生徒の詩や小説、論文なども載る。しかしいちばんみんな が興味津々で読むのは、最後に配される「寸言集」である。卒業生が在校生に残していく一言で、三年生は全員が書くものとなっている。
    
 およそ半世紀前、十八歳の猪瀬少年は、卒業に際してどのような言葉を後輩に残したか。         その文をそのまま紹介する。
     
                             三年二組   猪瀬直樹

    この辺で、飽きてきたと思いますので(何人もの寸言を読むのに飽きてきた、の意味―丸山注)健

    康のために軽い運動をしましょう。私の指示に従って体を動かしてください。まず両腕を前に伸ばす

    。次にその腕を伸ばしたまま真上にもっていく。用意はいいですか?では始めます。マンドリン班万

    才(先の動作を声を出して行うこと)万才!万才!
    御苦労であった。
           追伸
    くれぐれも注意しておく。(ここでセキバライ)万一予備校で顔を合わせても大きな声 で先輩なん

    て呼ぶなよ!


    
 以上である。真面目に書くことを恥ずかしがっていることにみなさんもお気付きだろう。これは誰しもそうだった。それはその筈、だいたい高校生の身空(みそら)で、立派な教訓めいた一言など残せる訳がない。するやつは、相当野暮で、アタマがニブイと思っていいだろう。
  僕は記憶がないが、この寸言を読むと、猪瀬はマンドリンクラブに属していたようだ。あの鬼瓦のような顔をした猪瀬が、臨月の妊婦の腹のような形をしたマンドリンを抱えて演奏をしていた時代があったのである。
    
  手元の『金鵄』を読み返すと、猪瀬は昭和39年、三年時の前期に生徒会の常任幹事をつとめている。校内ではつづめて「ジョーカン」と呼んでいたが、ジョー カンの役割は、生徒会活動において、指導的な役割を果たすことだった。その一番の活躍の場は、応援指導であった。つまり応援団と思っていただいてよい。団 長はジョーカンの中から選ばれる。
 春先4月、新入生や二年生を裸足で校庭に集め、一週間にわたって、きびしくしぼりあげる。ジョーカンも裸足で ある。長野の4月はまだ風が冷たく、足がこごえる。僕たちの学年は戦後のベビーブームで約470名、うち20人ほどの女子がいたが、応援指導は女子生徒に 対しても容赦がなかった。指導とはいっても、声が小さいとか、姿勢がわるいとか、動作が遅いとか、ごく些細なことで怒鳴りつけ、ほとんど恫喝、威嚇であ る。
 長野高校の応援練習は軍隊式で、きびしいことで有名だった。男子だけだった旧制中学時代の風潮が、このようなかたちで残存していたのであ る。暴力沙汰のような不測の事態が起きないように、生徒会顧問の教師が離れて見守っていたが、生徒の自治を重んじて決して口出しすることはなかった。
  戦前は軍人になった卒業生も多かった学校であった。およそ7年前に公開されて評判となった映画、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』の主 人公で、渡辺謙が演じた守備隊指揮官・栗林忠道中将もそうであった。硫黄島での壮絶な玉砕を描いた作であったが、栗林中将は千曲川を渡った松代(まつし ろ)の出身、部下や家族思いの悲劇の名将であった。
 応援指導の一員であった猪瀬直樹。僕には今も、どことなくそんな雰囲気が感じられるのである。ちなみに僕は応援団がいちばん苦手だった。
    
  次は猪瀬直樹の出自について簡単にふれておく。猪瀬本人は長野市内の中学を出ているが(信州大学教育学部付属長野中学校)、父親は僕と同じ飯山市の出身 で、猪瀬自身も飯山市で生まれている。飯山市のいちばん長野市寄り、秋津地区静間(しずま)というところに、猪瀬姓の家が今も何軒かある。
 両親はともに小学校教師であった。実は僕の二十四歳上の長兄も小学校の教師で、猪瀬の父親を知っていた。おそらく旧制飯山中学、長野師範の先輩後輩だったのである(猪瀬の父親が年上)。その父親を三歳の時に亡くし、猪瀬は母子家庭で育っている。

 猪瀬の母親は教師をやりながら短歌の先生もやっていて、僕の長兄の妻は、実際に長野市内で短歌を母親から習ったという。その血筋をひいて、猪瀬もおそらく文学青年だったのだろう。
  長野県では、県民性によるのだろうが、政治家や役人よりも、芸術家や学者を高く見る傾向があった。高校でも、東大にいって高級官僚になるなどというと、ど こか軽く見られたものである。一人、東大を出てバタ屋(ゴミ集め)をするというやつがいたが、これにはみんな驚いて声もなかった。こういうヘンなやつだけ が僕の友達であった。

 猪瀬も政治で足をすくわれるとはさぞ無念であろうが、これもすべて自己責任、運命の皮肉だろう。
    
  猪瀬の著作に関していうと、代表作は何といっても『ミカドの肖像』だが、僕は最初の著書『天皇の影法師』(1983年 朝日新聞社刊)を最も好んでいる。 これは天皇の葬儀に際して、なぜ京都北東、大原に近い八瀬(やせ)の人々「八瀬童子」だけが棺を担ぐことを許されるかという、いわば天皇制の謎にふれる歴 史的文化的な研究である。童子といっても子供ではない。大人である。目のつけどころが素晴らしいし、文章も引き締まって、良い。

 ちなみに僕の寸言は白紙である。残す言葉など何もないと思ったから、敢えて白紙で卒業した。これは学年で僕だけだったかも知れない。
 かつて太宰治は故郷について問われ、「汝を愛し、汝を憎む」(『津軽』)と答えたが、僕の出身校の対する思いもほぼこれと同じである。