がんばれ!大砂嵐

更新日:2013年6月25日

作家 丸山修身

 

この5月の夏場所後、大相撲に新しい関取が誕生した。その名は「大砂嵐 金太郎(おおすなあらし きんたろう)」。初のアフリカ出身力士である。
 僕はこのしこ名がすっかり気に入ってしまった。ピラミッドで有名なエジプト、ギザの生まれで、広大な砂漠が目に見えるようではないか。一面に吹きすさぶ砂嵐。その中ですくすくとたくましく育った「金太郎」。そこに滲む、ゆったりとしたユーモアが、実にいい。

 僕が最近の相撲はつまらないと感じる理由の一つが、しこ名のつまらなさだ。各部屋ごとに、親方のしこ名から一部を借用した、ゲイもないしこ名がやたらに多い。例えば師匠が千代の富士なら、千代の国、千代大龍。貴乃花なら、貴ノ岩、貴月芳。琴ノ若なら、琴欧州、琴奨菊。にじみ出る個性が感じられない。もうちょっとアタマを使って考えろ、と言いたい。
    難読しこ名もいただけない。幕内だけとっても、日馬富士(はるまふじ)、稀勢の里(きせのさと)碧山(あおいやま)、豪風(たけかぜ)、臥牙丸(ががまる)等々。じっと見ていると、なんだか頭が重くなって、悪酔いしそうだ。だいたいこういうものは、ぱっと見て、ぱっと分かり、そこはかとなく親しみを感じさせるものがよい。こせついて、頭をひねって考えさせるなど、野暮の骨頂である。当人たちがこれを、カッコイイ、と考えているのであれば、とんだお門違いというべきだろう。

 大相撲界には昔から「江戸の大関より地元の三段目」という言葉があったように、出身地の香りをとても大事にするものだった。しこ名にもそれが反映していた。
 横綱を例にとっても、常陸山(第十九代・茨城)、太刀山(たちやま 立山に由来。第二十二代・富山)栃木山(第二十七代・栃木)、武蔵山(第三十三代・神奈川)男女ノ川(みなのがわ 第三十四代・茨城)、安藝ノ海(第三十七代・広島)など多彩である。
 シェイクスピア・カンパニーの拠点、宮城県に関していうと、僕と同世代の仙台出身力士で、「青葉城」という髪の毛が薄い、それに反してもみ上げが立派な力士がいた。青葉城―言うまでもなく伊達政宗の城である。これなど、まさにそのものずばり、実に分かりやすいではないか。おそらく仙台の人達は我が身内のように感じて声援を送ったはずである。また青葉城のちょっと年下に、「青葉山」という馬のように顔が長い力士がいたが、彼は黒川郡大郷(おおさと)町出身であった。いずれも派手さはないが、玄人好みする、堅実な四つ相撲だった。
    ずいぶんふざけた(と僕には思われる)しこ名もあった。自動車早太郎、三毛猫泣太郎、文明開化、凸凹太吉(でこぼこたきち)、一二三山四五六(ひふみやまよごろく)、猫又虎右衛門、馬鹿の勇助、右肩上り、など。
    僕が子供の頃、実際に弱いやつによくつけたものに、デルトマケ(出ると負け)というのがあった。これは普通名詞としても一般的に使っていた。例えば、「デルトマケの松商」というように言うのである。高校野球の甲子園大会には長野県から松商学園が出場することが多いのだが、いつもころっと一回戦で負けてしまう。だからこんなありがたくない名がつくことになったのだ。またカチナシヤマ(勝ち無し山)というのも使った。強いやつにはつけないのが普通である。

    しこ名といえば、僕に忘れがたい一つの授業がある。あれは高校の二年だったか三年だったかの漢文の授業で、司馬遷の『史記』を読んでいた時であった。教師のあだ名は「和尚」といい、顔が犬の狆(ちん)に似ていて、実際に曹洞宗の僧侶でもあった。ユーモアがあって生徒に人気があった。
    場面は有名な「四面楚歌」である。勇猛で知られた楚王・項羽は、覇を競っていた劉邦(漢の初代皇帝・高祖)に圧倒され、垓下(がいか)に追い詰められた。項王は立てこもった城壁内で、夜間、付き従う少数に囲まれて詩をつくった。
  
 力抜山兮気蓋世 「力は山を抜き 気は世を蓋(おお)う」
 時不利兮騅不逝 「時に利あらず 騅(すい)逝(い)かず」騅は馬の名 
 騅不逝兮可奈何 「騅の逝(い)かざるを いかんすべき」
 虞兮虞兮奈若何 「虞や虞や 若(なんじ)をいかんせんと」虞は愛人の名

 ―かつて私の力は山を抜くようで、気力は世を覆っていた。しかし時に利なく、今は愛馬の騅も、敵である漢軍の気配を前方に感じて進もうとしない。騅が進もうとしないことはどうしたらいいのか。もはやこれまで。虞や、虞や、お前をいったいどうしたらいいだろう。
    虞(ぐ)は、虞美人草(グビジンソウ)の語源となった絶世の美女、ずっと行動を共にしてきた項羽の愛妃である。目の前に控える虞の行く末を歌って、項羽は数行の涙を流し、周囲の者は皆泣き、顔を上げるものが無かった。まるで目に見えるようで、『史記』で僕がもっとも好きな場面である。
    さて、ここでしこ名の件である。詩の一番最初に「力抜山」とあるのに、みなさんもお気づきだろう。和尚はこの三字を黒板に大書きし、昔ある力士がこれに感動して、しこ名に拝借した、と語った。「チカラヌキヤマ」である。ところがこれが「チカラヌケヤマ」と読まれてしまい、以後負けてばかり、大失敗に終わったというのである。
    教室にどーっと笑いが起こった。和尚はさらに言ったものだ。
「項羽のような豪傑が女のためにはらはらと泣くからいいのであって、諸君なんか泣いたって笑われるだけだ」
 ここでまた教室がどっと湧いた。勉強とは不思議なもので、真面目一方に教えられても頭によく入るものではない。漢文教師の脱線のおかげで、「四面楚歌」は実のよく僕の記憶に刻まれることとなった。

    脱線したが、元に戻る。僕は当分「大砂嵐」を応援することに決めている。先日6月24日の番付発表によれば、西十両9枚目、名古屋で7月7日が初日である。
    前途は平坦ではない。これから大砂嵐にも出会うだろう。ケガもきっとする。だが、負けるな、金太郎! と僕は声援を送りたい。