『ヴェニスの商人』読書会より(No.8 Winter 1997)

〈セリフ〉について  1996年11月10、17、24日              
 『ヴェニスの商人』は、アントーニオーのセリフ、「まったくのところ分からない、
どうしてこう気がめいるのか。くさくさする‥‥‥。」で始まる。戯曲ではこの突然
の始まりに何の説明もなされていない。彼は何故めいっているのだろうか?この言葉
を発するには、何か動機(目的といってもよい)があるはずである。表面に出てくる
セリフとはいわば氷山の一角であり、その下に秘む大きな感情の流れの1つの表れに
すぎないのだ。その感情、言葉の持つ目的をみつけてゆくのが、役者にとっての‘読
み’なのである。だから、役者は脚本とじっくり取り組み、自分のセリフはもちろん、
全体に流れるものを把握することが大切なのである。しかしこの時、セリフの1語1
語にとらわれすぎてはいけない場合もある。『ヴェニスの商人』ではこの後、アント
ーニオーの友人、サラーニオーとサリーリオーが様々な比喩、イメージでもって彼を
元気づけようとするセリフが続く。これらの比喩は、全てを観客に理解してもらう必
要はない。その全体をあるエネルギーのかたまりとして、感情のうねりとしてぶつけ
てゆけばよいのだ。言葉の持つイメージ、速さ、音といったものを取り込むことによ
って、セリフは豊かになってゆくだろう。

  このように、役者は常にセリフとその動機(目的)を行ったり来たりしながら、シ
ェイクスピアの戯曲の中に眠る‘力’の形、質感、大きさをとらえるように脚本を
‘読んで’いくことが必要である。


〈独白〉について  1996年12月1日
  シェイクスピア作品には独白(ソリロキー)が多く用いられているが、これは頭の
中に流れる思考を言葉にしたものである。この回では、『ハムレット』から有名なセ
リフ“To be or not to be; that is the question.”を取り上げた。

  独白とは、話している本人と観客にしか分からない(舞台上の他の役者には聞こえ
ていない)心の言葉である。物語が進む上では登場人物の思考が重要なファクターと
なるので、演劇ではそれが独白となって表れているのである。独白はそれ自体で独立
しているように思われるが、そうではなく、前のセリフまたは出来事がきっかけとな
って起こるものであり、根本的に動機を持っている。そのため、この言葉で思考を追
うセリフは、突然ドラマティックに演じられるのではなく、流れと同じ、つまり観客
と同じトーンで始められるべきである。また、心の言葉であるという性質上、誰か、
にではなく観客を引き込む、つまり観客を連れて‘芝居の旅に出る’のだ。独白は役
者1人で旅に出てしまう危険性をはらんでいるが、‘連れていくこと’が大切なので
ある。

  セリフの話し方にはその感情の表れとして、‘cool’と‘hot’,‘closed’と‘o-
pen’がある。‘closed’とは役者の世界が彼の中で閉じているということであり、
‘open’とはそれが開いているということである。役者はこれらの(これはもちろん
極端な表現であるが)4通りの組み合わせの感情でセリフをコントロールしてゆくのだ。

  closed,  閉じていながらhot,  情熱的に,  open,  開いていながらcool,  冷静に,
など。また1つのセリフ、独白の中でこれらの組み合わせが変化してゆくこともある
だろう。その取り合わせを‘読み’に生かしていくのが役者、そして演出家の解釈な
のである。セリフにこれらの感情を取り込むことで、シーンの中に起伏が生まれてい
くのだ。


〈方言〉について  1996年12月8日
 ‘方言’はこの劇団の持つ大きなテーマである。この回では、役者それぞれの持つ言
葉とともに、現段階で私たちが方言をどうとらえているかについて考えた。

  劇団員1人1人の言語のバックグラウンドは育ってきた環境によって様々であった。
もちろん方言を完全に自分のものとして持っている人もあれば、ほとんど残っていな
い人もいる。一般的に言っても、‘方言’は現在、語彙の面では後退しているものの、
イントネーションにおいては根深いようである。私達は今まで、役者の持つネイティ
ヴな言葉を生かしてゆく、というやり方で‘方言’を取り入れてきた。しかし、私達
がどういう言葉のシェイクスピアを作っていくのか、を考え直さなければならないだ
ろう。私達が‘方言’をベースとしてシェイクスピアを演じる時、役者は自身の持つ
言葉にかかわらず様々な言葉を話すようになることが理想的であるといえよう。この
時、方言(自分の言葉)で演じるということの魅力の1つである、感情の表現力を失
ってしまってはいけないのであるが。

  ここで、‘方言’の持つ表現力について考えてみると、ある限界を感じるかもしれ
ない。それは、‘方言’は感情の表現には向いているものの、思想の表現には向かな
い気配があるということだ。ある程度長いセリフの中には思想があり、それを伝えよ
うとする時、ある種の閉鎖性を持つ‘方言’は、感情の伝達に比べてその力を発揮し
得るだろうか。

  さて‘方言’の有意性としては、また、その言葉の持つ独特の‘こしの強さ’が挙
げられるだろう。シェイクスピアを標準語という整備された言葉で訳してしまうと、
原書が本来持っている‘ねばりけ’を失ってしまうというのである。木下順二はその
ために古語を使用したが、私達はその代わりとして、古語として口語に残っている
‘方言’を選んだ。戯曲とは本来‘書かれた話し言葉’であるべきであり、これは口
語そのものとはまた違ったもの、‘舞台語’であろう。しかし、私達は現在のところ
そのような舞台語を持ってはいないのである。natureである方言をartである舞台語
とするためには、ある意味で‘方言’を加工してゆくことも必要であるかもしれない。
私達の脚本は役者の持つ言葉に合わせてある、つまり、口語そのままを乗せてあるた
め、普遍性を持ち得ていない。1人でも役者が違ったら、その脚本は成立しないので
ある。果たして、このままでいいのか、いけないのか。‘方言’の問題に関しては今
なお模索中である。
(文責 鷲見直香)