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女川という経験

更新日:2013.2.2

主宰 下館和巳

 

 今日のエッセイは少し長くなるだろうと思われる。というのは、女川から帰ってすぐに書こうと思いながら、忙しさもあって書けないでいたことで、書きたいと思うことがかえって遠い記憶からいろんな思いを連れてきて、気がつけば思いが水溜りから沼のようになってしまっていたからだ。「経験」ということばを敢えて使ったのは、森有正という哲学者の「経験」ということばを思いだしながらのことだ。彼はこう書いている。

 「経験とは、ある根本的な発見があって、それに伴って、そのものを見る目そのものが変化し、また見たものの意味が新しくなり、全体のパースペクティヴが明晰になってくることだ」

 私がICUに入学したばかりの頃、本館から教会までうつむき加減に歩いている森有正をよく見かけたのだけれど、印象はあの『遥かなるノートルダム』の著者ではなくて、メランコリックなクマのプーさんという風だった。そういう風に見えたのは、森さんのせいでは決してなくて、何も知らない18歳だった私のほうの問題だったにちがいない、ということが今はわかる。

 私たちは今や、ささやかなお芝居をもって街から街へと、港から港へと、旅をしている旅芸人だ。行動というものは不思議なもので、最初は大変でも必ず慣れる。早く慣れたいと思っているのだけれど、そして慣れてもらわないといろいろな人に迷惑をかけて大変だったりするのだけれど、実は少し離れて見ていると慣れていない時が初々しくてかわいかったり美しかったりする。私は俳優ではないので、少しは離れた目で私たちを見ることができて、時折ふっと、この若い俳優たちがいつまでも慣れないでぎこちなく演じてくれていたらなぁ、と思わないではない。そして、その目で、いったい自分はどうなんだろうと自分を遠くから見つめてみる。

 

 「東北弁のシェイクスピア」という旗を掲げて、あるいはそういうレッテルを自分たちで貼ってそうして人にも貼られて18年になる。しかし、実を言うと、震災の起きる数ヶ月前のある日、「東北弁はもうやめて、標準語でやろうかな・・・」と思っていた自分に会っていたことがある。誰にも話さなかったが自問自答している自分がいた、ことは確かだ。

 なぜそう思っていたかと言えば、東北弁を聞いて喜んでくださる人たちに励まされる一方で、東北人の俳優にも観客にも、意味がさっぱりわからないと言われることが年々増えてきているような気がしていたからだ。俳優の滑舌の問題もあるだろう、日常の方言が舞台に乗ってしまった時に現れる不自然さもあるだろう、が、とどのつまりは方言がどんどんどんどん自分たちの生活から消えていっているということの、これは鏡なのだろう、と思う。

 標準語でならば東京に行ったほうがずっといいものが見れる。その通りだ。それでもまだ続けるのか?そういうシェイクスピアの中に私たちの存在意義はどれほどあるのだろうか?江戸末期の北海道を舞台にしたアイヌオセロと仙台藩士の娘の愛が繰り広げられる舞台を、観客席から見つめながら、そんなことを考えていた。

 そして3月11日。しかし、地震の起きるちょうど六日ほど前、私はプロダクションの進むさなか『アテュイ・オセロ』休止宣言を出した。唐突な宣言に劇団員の多くは困惑したにちがいない。いろいろな思いがあったが、そのすべてを忘れさせるような異変が時を置かずに起きて、『オセロ』どころかすべての活動を休止せざるをえなくなった。

 

 私たちは公演地で宣伝活動を事前にすることなくそこで公演することはなくて、必ずどんなかたちでか動いている。女川には二度足を運んで、仮説住宅に暮らす人たちにビラ配りをした。見知らぬ人の家を突然訪れる。シェイクスピアのお芝居、と言うと大概の人は後ずさりする、が、方言で、と言うと戻ってくる。若い俳優たちはどのくらいの仮設住宅をめぐっただろうか。ある家の人は、お茶やお茶菓子をだしてくれて、まるで家族のように接してくれたようだ。ある家の人は、傘を貸してくれたようだ。ある家の人は、いつまでも見送ってくれたようだ・・・私たちは、A地区の区長さんのご厚意で集会所を宿泊所として提供していただいた。そこに着いた公演の前日の午後、私たちは集会所の前にぽつねんとたたずむおばあちゃんに会った。87歳。「今に、こごさ、若い人だずが泊まりさくるっつうので、いづだべが~ど毎日こうして歩いでこの前さ来てみるんだが・・・あんだだじがそれがい」と。「おそらくそうです」と答えると、津波が来る前は、港の真ん前で海産物を営んでいたことや、何もかも流されてしまったことや、親戚も親しい友達もみんないなくなってしまったことや、もうなんのために生きてるんだかわからないから死んでしまいたいという思いを滔々と話してくれた。「それではまた」と言ってもなかなか離してくれないので、「おばあちゃん、今晩ここで懇親会やるがら来てけさいん」と言うと、「行きたいげんと、暗くなってあぶねがら・・・」と残念そうなので、「それでは、迎えにいぐがら」と言うと、うれしそうに「そすか、いいのすか、わりいね」と。夕方になっておばあちゃんの家を探して迎えに行くと、道すがらおばあちゃんは「およばれするのに、なんにも持っていがねのは、もうしわげねえがら、歌っこでもうだうすぺ」と。「いいがら、気つかわねで。孫みでな若いのいっぺいるがら、うんと喋らいん」と私。おばあちゃん、上座にちょこんと行儀よく緊張気味に座って、みんなの乾杯が終ると、にわかに歌いだした。「さんさしぐれ」からメドレーで四曲!

 「明日も迎えに行くがらね」とおばあちゃんを送って、翌日おばあちゃんを迎えに行ってお芝居を見ていただいて、そしてまたおばあちゃんを家まで送り届けた。その途中おばあちゃんは「昨日はうれしくて寝つけながったの。そして今日はまだこんなにいい思いをさせでいだだいで、なんとお礼を言ったらいいんだが、ほんとに・・・」と何度も何度も深々と頭を下げられて、「最後に、これにこりねで、まだ来てけさいんね。一回だげでは、さびしいがらね」と。

 私は「ん、まだ必ず来っからね」と言って、おばあちゃんと別れた。劇団員の待つ公演地の女川第二小学校に戻りながら、私は、前のめりになって見ていたたくさんの人たち、小学生からおばあちゃんまで、のたくさんの人たちの姿を思い出しながら、「そうか、ここでは方言が生きているんだ、まだ生活の言葉としてちゃんと命を持っているんだ。だから、私たちの舞台のことばと観客席のみんなのことばは一直線につながっているんだ」と思っていた。そして、「東北弁のシェイクスピアはいよいよこれから始まるんだ!」と胸の中で大きく響く内なる自分の声があった。

 前日、区長さんたちは、成人式と新年会が重なっているということで、「何人くるがな~」と自分のことのように心配してくれたが、なんと90人近いお客さんが来てくれた。私はみんなで一軒一軒まわったその人たちがみんな来てくれたんじゃないかな~、という気がしてならない。

 女川は、私をひっくり返して、また力強く東北弁のシェイクスピアに向かわせてくれた。