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いつも走りだしてから考える 

更新日:2012.11.2

主宰 下館和巳

 

 カンパニーをつくって、お芝居をやることになった時に、一体誰が演出をするんだろう?誰がホンを書くのだろう?と人ごとのように思っている自分がいた。学生時代に英語劇のクラブに属していて初演出で優勝したことはあるけれど、シェイクスピアの演出なんてできるかな?と思っていた。実際、「誰が演出するんですか?」と集まった人たちの一人に聞かれた時、きっと自信なんてなかったんでしょうね「僕かな?」と小さく言ったら、相手がシーンとなったので、「わかんないけどね」と「僕かな?」を打ち消すように言ったのを覚えている。

 ただ、ぼんやりと東京からエライ先生なんかよんで来て演出してもらったらいいのかもしれないけれど、そうしたらカンパニーはいつまでも東京のエライ先生の弟子になっちゃうわけで、第一新しいことができないじゃないか?と自問自答している自分がいた。結局、日本では誰も行って勉強したことがないイギリスのロイアル・シェイクスピア・カンパニーに入ればいいんじゃないか!とバカなことを考えた。無知だと思い切りバカな発想ができるからいい。いろんな運が重なってイギリスに留学するこになって、入ったわけではないけれど、演出家やヴォイストレーナーや役者たちと親しくなって、第一線で活躍する舞台人から直にシェイクスピアを教わることになった。ラッキー!

 まさか自分で翻訳をしていくなんて想像もしていなかった。演出はまだいいけれど、翻訳も脚本も時間がかかって面倒だ、と思っていたからだ。でも。そのワリには人に会うごとに「新しいシェイクスピアをつくるんだ」と意気込んでいる。よくわかっていない自分がいた。人の翻訳に頼っていたら少しも新しいものにならないと悟るまでずいぶんと時間がかかった。僕は、なんでもそうだ。走りだしてから考える。走りながら考える。つまり、何も考えないで、まず走りだす。

 翻訳・脚本をしはじめて3年ほどたった時、なんだか一人は寂しいと思った。そうして黒澤明監督が脚本を親しい仲間と合宿しながら書いていたことを読んで、「よし、僕もそうしよう」と決めた。一緒に考えて書いた脚本の第一作が『恐山の播部蘇』で、相棒は作家の丸山修身氏。『奥州幕末の破無礼』から友人の鹿又正義氏と教え子の菅原博英氏が加わって四人で考えている。一緒に温泉に入って、スルメかじって酒を飲んで、大笑いしながら考える。ほんとにほんとに楽しい時間なのだ。あの時みんなで考えた空想がもうすぐ形になる。

ぼかぁは、しあわせだな~。