丸山修身のつれづれ日記

シェイクスピア・カンパニー脚本構想でも御協力いただいている作家 丸山修身(まるやまおさみ)さんの月刊コラムです。(バックナンバーはこちら



本コラムが本になりました!

『青草の道』(鳥影社、2016年4月5日発刊)

 

本書は、これまでのコラムに手を加えて一冊の本にまとめたものです。

「ふるさと茫茫」「びっくりすること」「歴史のほとりにて」「いじらしき日々」「文学と演劇の言葉」の5章から構成されています。

著者曰く、「僕個人の体験を語りながらの一つの時代史と思っていただいてよい。田舎での幼い頃の暮らしと比べると、現在、東京で別世界を生きているかの感があるのである。それほど変化の激しい時代であった。団塊の世代の一人としてそれを記録しておくことは大きな意味があると考えた」とのこと。

ぜひお読みください。(アマゾンのページで詳細を見る


自作の受験問題を解く

更新日時 2019年8月31日 

作家 丸山修身
  

 今年の中学受験で自分の小説が出題された。それは「季刊文科71号」(2017年5月15日発行)に掲載された『頂上の一夜』という作品(「文芸復興第33号」より転載)である。これが日本文藝家協会が「2017年のベスト短編小説アンソロジー」と銘打って編纂した『文学2018』に採録され、それを読んだ先生が受験問題として取り上げたらしい。

 それは都内の私立K中学である。問題が送られてきたので、早速僕も昔に返って挑んでみた。原稿用紙にして四十枚ほどの短編だが、うち十枚近い長文の引用である。長い文を読んで理解することが出題の目的の一つなのだろう。

 

 小説の筋をざっと紹介すると、ある男が季節外れの晩秋、山形県の月山に単独行の登山に出掛け、避難小屋に宿泊する。当然夜は一人になるものと覚悟していたが、たまたま地元のおばあさんが登ってきて一緒になる。

 主人公「私」はおばあさんの目的が分からず、自殺をしに来たのではないかと薄気味悪く感じる。するとおばあさんはリュックサックから若い男の遺影と死んだ黒い蝶・カラスアゲハを取り出して小屋の中に飾る。写真の男は息子で、奥秩父に一人で登山に出掛けたまま行方不明になっている。蝶は家の畑でつかまえたもので、おばあさんは息子が黒い蝶となって自分のもとに帰ってきたのだと思い込む。そして息子が大好きだった故郷の山、死者の魂がいくとされている月山に、人混みの季節を避けて、一緒に連れて登ってきたのだった。

 

 さて、ここから設問である。全部で六問あり、うち四問は、四つある問から一つ正解を選ぶものだった。(四択) 実は僕はこういう問題は得意ではなかった。読んで勝手に自分流の世界を作り上げ、とんでもない誤答をすることがよくあったのだ。国語、特に現代国語は苦手科目の一つで、自信もなかった。

 それでも三問はなんとか正解らしいものを探し出すことが出来た。自分が書いた文章なのである。ところが最後の四択問題に至って、はたと考え込んだ。それはおばあさんと小屋で一泊し、翌日の別れる場面である。文章を引用する。

 

 翌朝は滅多にない快晴でした。(中略)私たちは左右に分かれました。私はこれから肘折温泉に下り、おばあさんは登ってきた月山八合目弥陀ヶ原に引き返して、櫛引に帰ります。私は生き返ったように晴朗な気分で、季節外れでしたが月山に来てつくづく良かったと思いました。

 

 設問は「どうしてですか。最も適当なものを記号で答えなさい」とあって、

 

 ア おばあさんとふれあうことで真の愛情とはどういうものか学ぶことができたから

 イ きれいな日本晴れの空に私とおばあさんを待っている明るい未来が想像できたから

 ウ 息子を思いつつけなげに生きているおばあさんの生き方に触れることができたから

 エ しっかり歩くおばあさんの姿に息子の死を乗り越えたすがすがしさを感じたから

 

 イは正解から外れるだろうが、他の三つで僕は考え込んだ。特にアとウである。どちらが正しいか、よく分からないのだ。結局、大枠では同じことを言っており、言葉巧みに言い換えたに過ぎない気もしてくるのである。

 そもそも小説は一つの総体的な生きものである。それを細かく切り刻んで解釈すること自体に無理がある。その矛盾を承知で問題を作成する担当者は、内心、詐欺をはたらいているような後ろめたい気持ちにならないだろうか。

 びっくりするのはこれが中学入試に出題されたことである。僕の友人達はこの問題をみて、みな高校入試の問題だと思い込んだ。当然である。文学にはある程度の年齢にならないと理解できないものがある。特に男女の微妙な問題などは、ある程度の経験を必要とする。アタマがいい、わるい、といった問題ではないのだ。

 長いこと教師をやった友人に訊くと、私立にはどうやら特有の見栄(みえ)があるらしい。しかし不相応の難問を解かされる少年少女は本当に可哀想だ。

 

 文章、特に詩や小説は読んだ人の心の中ではじめて完成するものである。その時、どのように感じようと、その人の自由であるはずだ。それを、正しい、正しくないで区別すること自体、読者に対する越権行為だろう。ましてや厳然と点数化することなど出来ない。ここに現代の国語入試の根本的な問題がある。

 いったいどうしたらいいのだろう。僕にも正直なところ、解決策は分からない。実は僕は家庭教師をやって口を糊していたことがあり、もっとも苦労するのは現代国語であった。国語の点数が悪いので国語だけを教えてほしいと頼まれた時は本当に困った。文章は読んで何を感じるかが勝負である。何も感じない人間に教えようがないではないか。生活のためもあって引き受けたが、正直なところ、今の受験国語に関しては教える方策がなかった。

 いちばんいいのは、原稿用紙をどっと与えて、好きなことを好きなように書かせることだろうが、その公平な採点はまず不可能だ。四択問題は深く考えたらダメ。さっと出題者の意図を推し量り、無難で立派そうな答を選択することがコツなのだろう。結局、他人の顔色をみるのにたけた、はしこい生徒が合格する仕組みになっているように思われる。

 また人間の多様性の問題がある。これは基本的人権と関わる。例えばある景色や絵画をみて、人それぞれ、感じることが違うのは当然だ。文章もそれと同じである。現代の大学センター試験をはじめとする国語の入試問題はそれに反している。これは昔と変わっていない。受験生は気の毒だと思う。

 

 最も怖れるのは、こういう問題を解かされる受験生が、国語力とはこういうものだと思い込むことである。そういう若者は決して文学、いや文章を読むこと自体を好きにならないだろう。好きにならなくても全くかまわないが、それでも基本的な読解力だけは身につけてもらわなくてはならない。平穏に世を渡っていくためである。このままだと、それすらも厭うようになるのではないか。

 結局、現代国語は教えることが出来ないというのが僕の実感だ。昔の寺子屋では「読み書きそろばん」といった。そこで実践された、文の解釈よりも耳から覚えることを優先させる、素読(そどく)。これは実に素晴らしい教育だと思う。万葉集や論語などの古典、詩、短歌、俳句などを暗記して唱えているうちにいい気分になってくる。この感覚、感動が貴重なのではないだろうか。意味はいずれ自ずと解ってくる。こうして体の中に沁み込んだものは生涯忘れないものだ。

 

 この入試問題が過去5年問の問題を収録した問題集に載ったので、僕は書店で立ち読みしてみた。さっそく疑問となっていた前掲の問題の解答を見た。すると正解は、ウ、となっていた。どちらかというと、ア、に傾いていた僕は、もし試験を受けていたら落ちたかもしれない。

 驚いたのは、ウが正しい理由が解説されていたが、それが実に理路整然、まるで算数や数学の解答のように書かれていたことだ。その本人が目の前にいたら、「おいおい、ちょっと待ってくれ。そんな単純なことではないだろう」と抗議したいくらいであった。

 

 だから、受験生のみなさん、国語の入試問題ができなくたって、アタマが悪いと悩む必要なんぞ全くありませんよ。本当のところ、書いた本人だって分からないのですからね。