丸山修身のつれづれ日記

シェイクスピア・カンパニー脚本構想でも御協力いただいている作家 丸山修身(まるやまおさみ)さんの月刊コラムです。(バックナンバーはこちら


本コラムが本になりました!

『青草の道』(鳥影社、2016年4月5日発刊)

 

本書は、これまでのコラムに手を加えて一冊の本にまとめたものです。

「ふるさと茫茫」「びっくりすること」「歴史のほとりにて」「いじらしき日々」「文学と演劇の言葉」の5章から構成されています。

著者曰く、「僕個人の体験を語りながらの一つの時代史と思っていただいてよい。田舎での幼い頃の暮らしと比べると、現在、東京で別世界を生きているかの感があるのである。それほど変化の激しい時代であった。団塊の世代の一人としてそれを記録しておくことは大きな意味があると考えた」とのこと。

ぜひお読みください。(アマゾンのページで詳細を見る

心たのしき飲み会

更新日:2017年7月10日

作家 丸山修身

 

ほぼ毎月、大学時代の友人達と飲み会をやっている。開く場所は地元小金井の場合もあれば、新宿、吉祥寺、立川、荻窪方面、国分寺方面など様々である。

5月には、下町散歩と称して、都心を通りこして隅田川を渡り、東京の東端、江東区の深川地区まで出掛けた。駅名でいうと地下鉄東西線・大江戸線の門前仲町駅、歩いてすぐのところに富岡八幡宮、深川不動尊がある。木場(きば)が近く、江戸時代、俳人芭蕉も住んで大いに繁栄した場所である。

この辺りは関東大震災で焼け野原となり多くの死傷者を出したが、元々の歴史が古いだけに、料理がおいしい庶民的な飲み屋がたくさんある。なによりも気取っていないのがいい。そういう飲み屋を目指してはるばる出掛けていくのである。

 

また先月6月は、僕も含めて男四人で、地元小金井で開いた。若い頃3年ほど小金井に住み、今は横浜に居住する友人Mが、小金井に行ってみたいと希望を出したのである。およそ40年ぶりぐらいの来訪であった。彼にとって、新婚時代を回顧するセンチメンタルジャーニーといえるだろう。要するに、彼も年をとったのである。

夕方4時に武蔵小金井の赤ちょうちんで飲み始め、5時半頃店を出て、Mが昔住んでいた地を再訪することになった。彼が以前からその場所を訪ねてみたいと言っていたのである。

この季節、7時頃まではまだ空が明るい。適度に酔ったいい気分で、ゆるゆると歩いていく。途中、僕が就職して小金井にやってきて初めて住んだ安アパートにも行ってみた。改築されていたが、まだ建っていたのがうれしかった。当時の夢や希望、悲しみ、心細さなどがどっとせめぎ寄せてきた。

Mが住んでいたアパートはその近くで、同じような路地が入り組み分かりにくい道だったが、しばらく探し回って探り当てた。ここにはよく遊びにいったものだが、派手な夫婦げんかもやっていた。新築だったアパートはなくなり、瀟洒な(しょうしゃ)な一軒家が建っていた。

 

それからほろ酔い気分の中、ゆっくり10分ほど歩いて東小金井の駅に向かった。この周辺は僕の青春があった場所である。特に忘れがたいのは、シェイクスピア・カンパニー主宰・下館さんと運命の出会いをしたことである。当時下館さんは近くの国際基督教大学(ICU)の学部生から院生の頃で、この北口に住んでいた。行きつけの飲み屋が一緒で、たまたま隣に座って大酒を飲んで談論風発を交わしたのがその後の長い付き合いのきっかけとなったのだから、まったく人と人との出会いというものは分からない。

その赤ちょうちんの店とは、東小金井駅南口、「サラリーマン大学」である。まったくの偶然だが、ここのマスターは東北大学法学部の出身、ママさんは宮城学院の卒業であった。マスターは元々、日興證券(現SMBC日興証券)の証券マンで、やめてレジャー関係の会社を立ち上げたのだがうまくいかなくなり、夫婦で飲み屋を始めたのだった。いつも混み合って活気にあふれた店であった。

 

ここでの下館さんと僕は、まったく周囲と異質の存在であった。カウンターで隣に座るとすぐ、シェイクスピアやダンテ、サルトル、近松門左衛門などの話を大声で始めるのだから、中には反感をいだく客もいたに違いない。しかし僕達はまったく気にしなかった。

とにかく話に夢中であった。思うさま語り合うことが、何よりの酒のサカナだったのだ。今でも下館さんと話すと、「あれは実に実に豊穣な時間だったなあ」と回想し合うのである。

 

その「サラリーマン大学」、今はなく、「さぼてん」という名のトンカツを主とする弁当、総菜のチェーン店に変わっていた。Mをはじめとする友人達もこの店でよく一緒に飲んだので、僕達はしばし店の前に佇み、「あそこで、しもちゃん(従業員の名)が焼き鳥を焼いていた」とか、「あの角に赤ちょうちんが下がっていた」などと昔を語り合った。下館さんと飲んだ頃の、焼き鳥を焼くもうもうとした香ばしい煙が、まざまざと眼前によみがえるかのようであった。

それから近くの他の飲み屋の跡にもいってみた。「バンビ」というスナックではよくカラオケで歌を歌った。歌が大好きだったのだ。歌いすぎて、「あんた、自分ばっかり歌って。新宿なんかだったら、叩き出されている」とママさんに怒鳴られたこともある。しかしそれも今はすっかり跡を消している。

 

それから駅の北口に回った。かつて駅周辺にあった飲み屋が姿を消した中で、一軒だけが昔の場所に店名も同じで残っている。「スタミナの城」という店である。ここは近くの法政大学工学部の学生がよく利用した店で、僕も、四、五回飲んだことがある。

なんといっても思い出すのは、Mがここでレバ刺しを食べてひどい食中毒を起こし、病院に運び込まれたことである。体にまったく力が入らなくなった、あれはひどかった、と彼は今も言う。

今回、四人でおよそ40年ぶりぐらいでこの店に入った。当然経営者も変わり、昔のいかにも中毒が発生しそうなごみごみした雰囲気から、小ぎれいで清潔そうな店内に一変していた。泥酔した学生の、耳の奥をくじるようながなり声も聞かれない。

僕達はみな、ほどほどで飲み止めることはしない。これは若い時から変わらない。「男でちょぼちょぼ飲んでいるやつにろくなやつはいない」などとメートルを上げるのである。僕は、「毎日、晩酌でお銚子一本なんてやつは、台所の隅でチクワをかじって満足しているネズミだよ」などと気炎をはいてどんどんと飲む。

勿論、毎日こんな飲み方をしている訳ではない。こんなことをしていたら身の破滅だ。月に一回程度の楽しみなのだ。僕は飲まない日は一滴も飲まない。何日飲まなくても平気である。僕はアル中ではない。

 

こんなことをやっていると、時に珍騒動も起きる。ある時新宿で飲んで、南の東海道線の藤沢駅まで帰ろうとした男が、電車を間違え、気づいたら西の山梨県の大月駅に行っていたということがあった。立派な大学の先生である。

仙台に例えれば、南の白石に帰ろうとしたはずが、目が覚めたら、遙か北の、岩手県一関辺りまで行っていたというところだろうか。

でも僕は、なんの間違い、痴愚(ちぐ)を犯さない人間よりの、こういう男の方がずっと好きである。

 

そんな僕達の姿を見て、飲まないやつから以前次のように言われたことがある。

「おまえ、あんなの飲んで、うまいか? 毒なんだぞ。毒飲んで、カネ使って、時間つぶして、おもしろいか? みんなションベンだぞ」

訳が分からないといった彼の顔つきで、口調にはいくぶんか軽蔑がまじっていた。

それに対し、僕は言い返したものだ。

「いや、それがいいんだ。飲まなければ人生、分からないぞ。飲まない人間は、すでに人生の半分を喪っているよ」

 

考えてみれば、酒、飲み屋によって開けた人生であった。その筆頭が「サラリーマン大学」で下館さんと出会ったことである。僕の場合、このような重要な出会いは、他にもいくつもある。

これからも体のゆるすかぎり、もっともっと飲みたいと思う。