丸山修身のつれづれ日記

シェイクスピア・カンパニー脚本構想でも御協力いただいている作家 丸山修身(まるやまおさみ)さんの月刊コラムです。(バックナンバーはこちら



本コラムが本になりました!

『青草の道』(鳥影社、2016年4月5日発刊)

 

本書は、これまでのコラムに手を加えて一冊の本にまとめたものです。

「ふるさと茫茫」「びっくりすること」「歴史のほとりにて」「いじらしき日々」「文学と演劇の言葉」の5章から構成されています。

著者曰く、「僕個人の体験を語りながらの一つの時代史と思っていただいてよい。田舎での幼い頃の暮らしと比べると、現在、東京で別世界を生きているかの感があるのである。それほど変化の激しい時代であった。団塊の世代の一人としてそれを記録しておくことは大きな意味があると考えた」とのこと。

ぜひお読みください。(アマゾンのページで詳細を見る


岩波映画・思い出すこと

更新日時 2019年4月5日 

作家 丸山修身
  

 新入社員の季節である。電車に乗ると、研修にでも向かうのだろうか、ベテラン社員に率いられた、いかにも初々しい一団をよく眼にする。僕はそれを見ると、スーツにネクタイをきちんと締めて、緊張して初出社した朝を思い出す。1971年4月1日のことであった。 

 僕も1年2ヶ月と10日という短い期間ではあったが、サラリーマンをやったことがあるのだ。それは「岩波映画製作所」という会社で、総武線の水道橋駅の近く、神田神保町の古書店街まで歩いて10分程のところにあった。

 戦後、岩波書店から生まれた会社で(交流はあったが経営はまったく別)、自然や健康、歌舞伎、能などの伝統芸能、医学、科学、民俗、美術、教育などの記録映画を制作した。数々の名作を生んで、国内外で多くの賞を受賞している。1950年代から70年代にかけての小中学生は、学校やテレビで岩波映画の教育映画をみて学んだものである。また羽仁進がいた頃は劇映画もつくった。

 

 僕が属したのは「企画演出部」という部署で、企画とはシナリオ作り、つまり助監督をつとめながらシナリオを書くというのが仕事であった。体力と神経を同時につかい、映画の助監督が務まれば出来ない仕事はない、といわれていたものだ。シナリオを書きながら撮影の準備手配をしたり、宿泊予約をしたり、スタッフ間のケンカを仲裁することもあった。

 なにせ助監督がミスしたら、撮影が出来ないのだ。金銭のロスは大変だ。ロケに出る時、金の管理は助監督の役目であったから、スリや泥棒にあわないよういつも気を使っていた。

 

 そんな中でいちばんの財産だと思っていることは、良い作品はどのように作られていくかを、間近でまざまざと見たことである。その例を一つ挙げる。

 榛葉(しば)豊昭さんという監督がいた。僕は一緒に仕事をしたことはなかったが、この人の下についたスタッフは大変だった。完璧を求めて粘るのである。科学教育映画における「黒澤明」だと思ってもらえばいい。ただ黒澤のように怒鳴りはしなかったが。

 有名なエピソードがある。ある時、生コンクリートを一輪車の荷台に積んで押し開ける場面を撮っていたという。ところが例によって完璧主義でリハーサルを何度も繰り返し、いざ本番となった時、コンクリートが荷台で固まってしまい、押し開けられなかったというのである。あまりにも出来すぎた話で、事実かどうかあやしいが、いかにも榛葉さんの仕事ぶりをよく表している。

 榛葉さんが撮ったのは主に物理や化学の映画で、たとえば物質の分子構造であるとか、化学変化とはどういうことかといった難しいことを、やさしく眼に見えるかたちで示すという点に映画の眼目があった。

 黒澤流であるから、予算もオーバーしたはずである。スタッフは徹夜が続いてへたばる。しかし完成した榛葉さんの作品は素晴らしく、大きな賞いくつも受賞した。よい宣伝にもなって、長い目で見て会社も充分ペイしたはずである。

 榛葉さんはいたずらに粘ったのではない。こう撮ればよくなる、とはっきり見えていたのである。榛葉さんの作品は奇をてらうということがなかった。カメラをフィックス(固定)に据え、正面から大きく堂々と撮っていた。それが僕はとても好きだった。何よりも理解しやすいのである。

 監督も様々で、やたらにカメラをパンしたり(移動撮影)、ズームをつかって画面を動かしたがる人がいる。えらくせわしなく、乱反射を起こしているような印象だ。それにやたらに音をかぶせたがる。つまり何かやっていないと安心しないのだ。ここに監督の力量がくっきりと現れる。すぐれた監督には度胸があって、独特の間と静謐(せいひつ)があるものである。最近の映画でいうと、音の使い方に無神経な監督が多すぎる。僕はひそかにそれで怒っている。

 

 岩波映画は自由闊達な社風もあって、「岩波学校」と呼ばれるほど人材を輩出した。いずれも外に出て、それぞれの分野でめざましい業績を残している。

 ざっと活躍した人を紹介すると、今いちばん名が知られているのは評論家の田原総一朗だろうか。それから映画監督では羽仁進。自由学園創設者羽仁吉一・もと子夫妻の孫で、父親は著名な哲学者であった羽仁五郎、母親は婦人運動家の羽仁節子である。ドキュメンタリーの手法を生かした新鮮なデビュー作「不良少年」で、大きな評判をよんだ。他に「彼女と彼」、「初恋・地獄篇」、「アフリカ物語」など。

 さらに劇映画では「美しい夏キリシマ」、「父と暮らせば」、「祭りの準備」、「紙屋悦子の青春」などの黒木和雄。「サード」、「もう頬杖はつかない」、「四季・奈津子」、「橋のない川」などの東陽一。

 ドキュメンタリーでは、ずっと水俣病の実態を追った土本典昭。また成田空港反対の三里塚闘争を撮り続けた小川紳介。いずれも土性骨がすわり、じっくり自らのテーマを追って、世界的に高く評価された監督である。

 小川はまた、山形県の山村に腰をすえて、「ニッポン国 古屋敷村」、「1000年刻みの日時計 牧野村物語」という古くからの東北農民の暮らしを記録に残した。「山形国際ドキュメンタリー映画祭」の創設提唱者でもある

 

 女性監督も活躍した。自由学園出身の羽田(はねだ)澄子さんは、「薄墨の桜」、「痴呆性老人の世界」、「早池峰の賦」などの瑞々しいすぐれたドキュメンタリーを撮って、とても評価が高かった。また時枝俊江さんは、「夜明けの国」という中国の文化大革命を内側から撮った作品を残した。これはおそらく、この歴史的大動乱を内から撮った、日本のみならず世界で唯一の記録である。

 演劇分野では、劇作家・演出家の清水邦夫がいた。それに秋浜悟。その他にも劇団に関係して、二股かけている人は多かった。

 文学分野では太宰治賞の三神(藤久)真彦。文芸評論家の入江隆則。それに翻訳家では英米文学の池央耿(ひろあき)がいた。池さんの名前は読むのに苦労したものだ。写真家では、東松照明、長野重一など。

 

 岩波映画は1998年になくなった。硬派の会社で、経営が立ちゆかなくなったのである。しかし破産、倒産とは思いたくない。輝かしい歴史を残し、時代の推移とともに大往生をとげたのだと思いたい。この時は新聞各紙で大きく報じられ、小さな会社であったが、その社会的存在の大きさを思い知らされた。

 僕は退社した後もずっと岩波映画関係者との付き合いはある。別にケンカをしたとか金を使い込んだといった理由で辞めたわけではないから、会えばたちまち昔に返って楽しい酒となる。

 

 最後に、初出社の朝の忘れられない思い出を一つ。僕は緊張して中央線東小金井駅から、東京行きの一番前の車両に乗り込んだ。が、電車が走り出してすぐ、ヘンな気配に気づいた。かなり混んでいるのに、男が一人も乗っていないのである。それに僕を見る女性達の視線には、どこかトゲがある。

 はっと気づいた。これは女性専用車両なのだ、と。当時、ラッシュの時間帯、中央線だけに女性専用車両があったのだ。僕は横浜から引っ越してきたばかりだったから、それをよく知らなかった。女性専用車両はまだ一般的ではなく、国鉄(現在のJR)にもそれを積極的に周知しようという姿勢はなかった。

 いたたまれなくなって、僕は次の武蔵境駅で降りた。時間の余裕をもって出たからよかったが、ぎりぎりの電車に乗ったら初日から遅刻したかもしれない。その後しばらくして、女性専用車両はなくなった。僕のようなケースは他にもあったはずで、評判がよくなかったのだろうか。

 女性専用車両は東京では最近どの路線でも定着しているが、そうでない時代もあったのだ。車中の初々しい新入社員を見ると、あの朝のバツの悪さをまざまざと思い出すのである。