丸山修身のつれづれ日記

シェイクスピア・カンパニー脚本構想でも御協力いただいている作家 丸山修身(まるやまおさみ)さんの月刊コラムです。(バックナンバーはこちら



本コラムが本になりました!

『青草の道』(鳥影社、2016年4月5日発刊)

 

本書は、これまでのコラムに手を加えて一冊の本にまとめたものです。

「ふるさと茫茫」「びっくりすること」「歴史のほとりにて」「いじらしき日々」「文学と演劇の言葉」の5章から構成されています。

著者曰く、「僕個人の体験を語りながらの一つの時代史と思っていただいてよい。田舎での幼い頃の暮らしと比べると、現在、東京で別世界を生きているかの感があるのである。それほど変化の激しい時代であった。団塊の世代の一人としてそれを記録しておくことは大きな意味があると考えた」とのこと。

ぜひお読みください。(アマゾンのページで詳細を見る


オセロの奇跡と軌跡

更新日時 2020年1月9日 

作家 丸山修身
  

 『つれづれ日記』の更新がずいぶん遅れてしまった。まずそのことをお詫びする。これは別に僕が体調を崩したとか、特別に忙しかったといった事情によるものではない。去年8月の『アイヌ オセロ』ロンドン公演が終わって、どっと虚脱感に襲われたのである。やはりそれだけ気が張り詰めていたのだろう。 

 東京にいながら僕も時差を計算して、ああ、もう最初の公演が始まったな、とか、いよいよ最終回だな、みんな元気だろうか、などと想像を巡らしていたのだった。おそらく同じ気持ちで過ごした人は少なくなかったはずである。

 僕のように日本にいて公演に何の役割を果たさなかった者でもこうなのだから、演出や役者など、実際に英国で舞台を担ったみなさんは、どんなに疲れが出たことだろう。力抜けして、おそらくしぼんだ風船になったような気分ではなかったか。どうかしばらく休んで、英気を養ってください。またむくむくと活力が甦る日がきっとやってきます。

 

 これでシェイクスピアの四大悲劇の上演が完了したが、考えてみれば、よくぞはるばると歩いてきたものだ。1993年の劇団設立以来30年近くなる。まだ生まれていなかった劇団員も多いのだ。

 先ず1999年~2000年の『恐山の播部蘇』。これは『マクベス』の舞台となったスコットランドまで出掛け、エジンバラ・フェスティバルに参加した。この一連の過程はテレビ朝日「久米宏のニュースステーション」はじめ、多くのマスコミに大きく取り上げられた。

 さらに2006~2008年の『破無礼』。2010年~2011年の『アトゥイ オセロ』(アトゥイ、とはアイヌ語で海のこと)。2013年~2014年の『新リア王』ときて、2018年から2019年にかけての、この度の『アイヌ オセロ』であった。途中、東京、札幌公演もあり、その掉尾(とうび)をロンドン公演をもって飾ったのである。

 この間、四大悲劇以外の作品も上演してきたのだが、どの作も容易に成ったものはなかった。苦難の連続であり、それを思い返すと、しみじみと泣きたいような気分になる。

 

 『アイヌ オセロ』ーこの作品は数奇な運命を辿ったが、出だしから現実ではないような不思議に満ちていた。これからそれについて書いてみよう。

 あれはもう10年以上前のこと、2009年の秋だったと記憶する。僕は下館さんと京橋の東京国立近代美術館フィルムセンター(現国立映画アーカイブ)でアイヌ映画『コタンの口笛』(昭和三十四年―1959)を観た。脚本づくりの参考にするために、アイヌの暮らしを少しでも正確に知りたかったのである。

 この作は元々石森延男の小説であったが、その前半部分を成瀬巳喜男監督、橋本忍脚本の巨匠コンビで映画化したのだった。田舎で最初に観た時、僕は小学生だった。学校に回ってきた定例の巡回映画で観たのだった。

 京橋での当日、観終わって僕たちは、近くの寿司屋に入って一献傾けた。そして映画の感想を語り合った。久保賢(後の山内賢)が映画で演じた主人公のアイヌ少年は、なんと初々しくキリッとしていたことだろう。正しいと思うことをきっぱりと主張する潔癖さが際だっていた。

「ああいう少年、今はいなくなったなあ」

 僕と下館さんはそう言って往時をしのんだのであった。これはおそらく今との時代の違いだけでなく、きびしい差別と貧しさを背景にして生まれたものである。

 

 寿司屋を出て、僕はふっと路地の向かいを見た。するとすぐ目の前、高さ4メートル程の壁に、まるで僕たちを出迎えるかのように縦1メートル、横30~40センチの黄色い看板が掛かっていた。その店名を見ると、何と「オセロ美容室」!

 僕たちはびっくりして、しばらく看板を見上げて佇んでいた。こんな偶然があるだろうか。なぜ美容室に「オセロ」などという似合わない名前をつけたのか。どう考えても分からない。まさかゲームのオセロではないだろう。

 その看板を見上げたまま僕は言ったものだ。

「下館さん、これは奇跡ですよ。……すぐ目の前にオセロとは……。きっと成功しますよ」

 僕には看板が『オセロ』の出だしを祝っているかのように感じられたのだ。

 

 その後、下館さんが脚本のイメージをつかむために北海道に渡り、はるばる道東・野付(のつけ)半島の砂州の先端に立って、僕に電話とメールをくれた。根室海峡をへだててすぐの国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島は幕末、仙台藩士が対ロシアの北方警固に赴き、悲劇を刻んだ地である。

 下館さんは電話で、目の前に展開する荒涼とした風景について語った。僕もその何年か前に野付半島に旅したことがあり、枯れ木が林立するさびしい海辺を知っている。冬はどんなにきびしいことだろう。こういうものだけは、実際にその場所に立ってみなければ分からない。アタマで考えてはダメなのだ。

 このようにしてヴェニスの軍人・ムーア人オセロは、アイヌとなった。そして場所と時代は対ロシアで騒然としていた蝦夷地の幕末であることに決定したのであった。

 

 しかし上演を始めて程なく、2011年3月11日、東北の地を千年に一度といわれる大震災が襲った。これにより、『アトゥイ オセロ』は一旦頓挫を余儀なくされた。

 再出発はそのおよそ8年後であった。そして今回のバージョンのいちばんの眼目は、アイヌの人たちが実際に演出や演技に加わったことである。アイヌの娘達の踊りや歌が入ることによって、ぐっと情感が増して印象が深まった。長い中断が一種の発酵効果をもたらしたといえるだろう。大半の人は、結果としてこれが良かったと感じたのではないだろうか。

 

 このようにして『オセロ』の奇跡と軌跡を振り返ると、夢のような思いを禁じ得ない。カンパニーは発足以来、利益を目的とせず、30年近くも続いている。そもそも劇団が長く存続するということ自体、たいへん困難なことなのだ。ましてやアマチュアの場合、メンバーの転勤や結婚など、よんどころない事情もあり、学生は卒業就職ということがある。人間関係の確執も当然起こりうる。もちろん資金面は先ず解決しなければならない大問題である。しかし一緒に舞台で演じたという経験はとても貴重な財産なのだ。だから一旦カンパニーを離れても、事情が許すようになったらまたいずれ戻ってきてくれれば、僕としてはたいへんうれしいことである。

 文学とか演劇は、八百屋、魚屋、ラーメン屋などと違って、どうしても暮らしに必要というものではない。しかしこれは人間が人間らしくあるためにとても大切なものである。

 

 著名なオランダの歴史家、J.ホイジンガは、人間を定義して「ホモ ルーデンス」(homo  ludens)といった。つまり「遊ぶ人」である。遊ぶ、とは、楽しむ、と言い換えてもよい。またフランスの哲学者、H.ベルグソンは「ホモ ファーベル」(homo faber)―「創る人」といっている。「遊ぶ」ことと「創る」こと。なんと人間を定義してぴったりなことだろう。芸術芸能がなければ、人間は人間たり得ないのだ。

 映画、音楽、絵画、そして歌舞伎、能などの古典芸能、落語、漫才などが無い世界を、みなさん、想像してみていただきたい。ぞっとするではないか。僕なんぞ、生きられないとさえ思う。

 完成したと思ったら進歩は終わりだ。今年もまた、みなさん、新たな気持ちで歩んでいこうではありませんか。宿願の劇場建設が実現することを願って。